「MUTE BEAT」と一致するもの

Tujiko Noriko - ele-king

 おもに〈Mego〉~〈Editions Mego〉からのリリースを中心に、00年代から活躍をつづける電子音楽家、ツジコ・ノリコ。その5年ぶりの日本ツアーが決定している。最新作『Crépuscule I & II』をもとにしたライヴになるそうで、京都、東京、福岡の3都市をめぐる。東京公演ではベルリンの映像作家 Joji Koyama がAVを手がけるとのこと。詳しくは下記より。

Tujiko Noriko Japan Tour 2024

1/09 Tue at Soto Kyoto
https://soto-kyoto.jp

1/11 Thu 18:30 at WWW Tokyo w/ Joji Koyama LIVE A/V
https://www-shibuya.jp/schedule/017371.php
TICKET https://t.livepocket.jp/e/20240111www *限定早割販売中

1/13 Sat at Artist Cafe Fuokuoka
https://artistcafe.jp

tour promoter: WWW / PERSONAL CLUβ

薄明かりのサウンドスケープ。エレクトロニカの伝説、フランス拠点のTujiko Norikoが5年ぶりの日本ツアーを開催。東京公演ではベルリンの映像作家Joji KoyamaとのライブA/Vを披露。

2001年のデビュー以来00年代のDIYなサウンドスケープのムーヴメントから生まれたエレクトロニカを始め、アートを軸とした電子音楽シーンで映像含む数多くの作品をリリースし、映画、パフォーマンス、アニメーション、インスタレーションの音楽制作含む数々のコラボレーションを果たして来たTujiko Norikoが、本年明けに老舗Editions Megoからリリースした映像作家Joji Koyamaとの大作『Crépuscule』(薄明かり)を基にしたライブを携え、京都、東京、福岡を巡る5年ぶりの日本ツアーを開催。

https://www.instagram.com/koyama_tujiko/


Tujiko Noriko

フランスを拠点に活動するミュージシャン、シンガーソングライター、映像作家。2000年、Peter RehbergとChristian Fenneszが彼女の最初のデモテープを発見し、アルバム『少女都市』でMegoからデビュー。アヴァンギャルドなエレクトロニカ周辺で高い評価を受け、Sonar、Benicassim、Mutekなどのフェスティバルに招かれ、世界中で演奏活動を行う。これまでにEditions Mego、FatCat、Room 40、PANから20枚のアルバムをリリースし、高い評価を得ている。2002年のアルバム「Hard Ni Sasete」はPrix Ars ElectronicaでHonorary Mentionを受賞。

映画、ダンス・パフォーマンス、アニメーション、アート・インスタレーションなどの音楽を手がけ、著名なミュージシャン、Peter Rehberg,、竹村延和、 Lawrence Englishらとコラボレーションしている。2005年には初の映像作品「Sand and Mini Hawaii」と「Sun」を制作し、パリのカルティエ財団や東京のアップリンクなどで国際的に上映された。2017年、Joji Koyamaと共同脚本・共同監督した長編映画「Kuro」はSlamdance 2017でプレミア上映され、Mubiでも上映された。2020年から21年にかけて、彼女の音楽作品はレイナ・ソフィア美術館で開催された展覧会「Audiosphere」(主要な現代美術館で初めて、映像もオブジェも一切ない展覧会)に出品された。

2020年にはサンダンスとベルリン国際映画祭で上映された長編映画「Surge」の音楽を担当し、2022年にはla Botaniqueでプレミア上映されたミラ・サンダースとセドリック・ノエルの映画「Mission Report」の音楽を担当した。

Joji Koyamaとの最新アルバム『Crepuscule I&II』をEditions Megoからリリースしている。

https://twitter.com/tujiko_noriko

ディスコグラフィー

'Shojo Toshi' 2001 (Mego)
'Make Me Hard' 2002 (Mego)
'I Forgot The Title' 2002 (Mego)
'From Tokyo To Naiagara' 2003 (Tomlab)
'DACM - Stereotypie' with Peter Rehberg 2004 (Asphodel)
'28' with Aoki Takamasa 2005 (Fat Cat)
'J' with Riow Arai 2005 (Disques Corde)
'Blurred In My Mirror' with Lawrence English 2005 (ROOM 40)
'Melancholic Beat' 2005 (Bottrop-boy)
'Solo' 2006 (Editions Mego)
'Shojo Toshi' 2007 (Editions Mego)
'Trust' 2007 (Nature Bliss)
'U' with Lawrence English and John Chantler 2008 (ROOM 40)
‘GYU’ with tyme. 2011/12 (Nature Bliss/ Editions Mego)
‘East Facing Balcony’ with Nobukazu Takemura 2012 (Happenings)
‘My Ghost Comes Back‘ 2014 (Editions Mego/ p*dis)
'27.10.2017' with Takemura Nobukazu 2018 (Happenings)
‘Kuro’ 2018 (pan)
‘Surge Original Sound Track Album’ 2022 (SN variations/Constructive)
‘Crepuscule I&II’ 2023 (Editions Mego)
‘Utopia and Oblivion’ 2023 (Concept compilation album from Constructive)


Joji Koyama

ベルリンを拠点に活動する映像作家、アニメーター、グラフィック・アーティスト。短編映画、アニメーション、ミュージックビデオ(Four Tet、Mogwai、Jlinなど)は国際的に上映され、ロンドン短編映画祭や英国アニメーションアワードで受賞。2015年には初の短編ビジュアルストーリー集「Plassein」を出版。Tujiko Norikoと脚本・監督を務めた長編映画「Kuro」はスラムダンス映画祭でプレミア上映され、MUBIで世界中に配信された。様々なメディアやコンテクストで活動し、最近のコラボレーションには、絶賛されたアルバム「Crépuscule I&II」に基づくTujiko NorikoとのツアーライブA/Vプロジェクトがある。

jojikoyama.com
instagram.com/jojikoyama
twitter.com/jojikoyama



Tujiko Noriko - Crépuscule I & II [Editions Mego / pdis]

まだEditions Megoになる前のMegoの初期、過激な作品群の中に思いがけない作品が登場しました。PITA、General Magic、Farmers Manualなどの歪んだハードディスクの中から、全く異なる種類のリリースが現れたのです。コンピュータで作られたものでしたが、よりソフトな雰囲気、雲のような音、そしてメロディーさえもありました。それは日本人アーティスト、ツジコノリコの記念すべきデビュー作『少女都市』(2001年)であり、彼女のキャリアをより多くの人々に紹介しただけでなく、Editions Megoの門戸をより幅広い実験的音楽形態に開くことになりました。

電子的な抽象性、メロディー、声、そして雰囲気というツジコノリコ特有の合成は、彼女の神秘的な言葉の周りを音が優しく回り、歌として構成された感情的な聴覚実験の連続へと変化していくため、他の追随を許さないものです。彼女はMegoからのデビュー作以来、ソロ作品やコラボレーションを重ね、また女優や監督として映画界にも進出するなど、進化を続けています。

PANから2019年にリリースされたサウンドトラック『Kuro』以来の新作となる本作では、映画というメディアが彼女の音楽に与えた影響を聴くことができ、視覚的な記号が手元にある刺激的なオーディオに呼び起こされます。インストゥルメンタルのインタールードは、タイトルと一緒に映画の風景を思い起こさせ、映画の形式を再確認させます。これは、深い人間的な存在感を持つ合成音楽です。内宇宙の幻想的な領域を彷徨う人間の心が、通常はそのような人間的な傾向を崩すよう促す機械を通して、絶妙に表現されています。その温もりと静寂、そして夢のような空間が、ツジコノリコという作家の個性であり、この『Crépuscule』は、その力を見事に証明しています。

「Crépuscule(薄明かり)」というタイトルこの音楽の夢遊病的な性質を見事に表現しており、夜行性の変化が広い意味での静寂を呼び起こします。「Crépuscule I」は短い曲のセレクションで構成され、「Crépuscule II」は3曲の長めの曲で構成され、これらの曲とムードが呼吸するためのスペースを提供しています。本作は、リスナーが彼女の目を通して世界を見ることを可能にし、機械に人間味を与える彼女の巧妙な手腕により、穏やかな不思議な世界がフレーム内にフォーカスされています。

Track listing:

Disc 1
1 Prayer 2′ 22”
2 The Promenade Vanishes 6′ 18”
3 Opening Night 4′ 30”
4 Fossil Words 8′ 10”
5 Cosmic Ray 3′ 26”
6 Flutter 4′ 18”
7 A Meeting At The Space Station 11′ 38”
8 Bronze Shore 6′ 46”
9 Rear View 3′ 22”

Disc 2
1 Golden Dusk 12′ 50”
2 Roaming Over Land, Sea And Air 23′ 58”
3 Don’t Worry, I’ll Be Here 18′ 45”

INFO https://www.inpartmaint.com/site/36264/

Zettai-Mu “KODAMA KAZUFUMI Live in Osaka 2023” - ele-king

 長きにわたり KURANAKA a.k.a 1945 が大阪でつづけてきたパーティ《Zettai-Mu》。その最新イヴェントになんと、こだま和文が登場する。関西公演はおよそ5年ぶり、パンデミック後としては初とのこと。バッキングDJは KURANAKA が務める。ほか、メインフロアにはDUB LIBERATION、Tropic Thunder、motokiらが出演、セカンド・エリアにも関西クラブ・ミュージック・シーンを代表するDJたちが集結する。12月16日(土)、スペシャルな一夜をぜひ NOON+Cafe で。

Zettai-Mu“ORIGINS” - ele-king

 大阪の KURANAKA a.k.a 1945 が主宰するパーティ、《Zettai-Mu “ORIGINS”》最新回の情報が公開されている。今回もすごい面子がそろっている。おなじみの GOTH-TRAD に加え、注目すべき東京新世代 Double Clapperz の Sinta も登場。10月15日土曜はJR京都線高架下、NOONに集合だ。詳しくは下記よりご確認ください。

Zettai-Mu “ORIGINS”
2022.10.15 (SAT)

next ZETTAI-MU Home Dance at NOON+Cafe
Digital Mystikzの Malaが主宰する UKの名門ダブステップ・レーベル〈DEEP MEDi MUSIK〉〈DMZ〉と契約する唯一無二の日本人アーティスト GOTH-TRAD !!! ralphの「Selfish」 (Prod. Double Clapperz) 、JUMADIBA「Kick Up」など(とうとう)ビッグチューンを連発しだしたグライムベースミュージックのプロデューサーユニット〈Double Clapperz〉Sinta!! CIRCUS OSAKA 人気レギュラーパーティー〈FULLHOUSE〉より MileZ!!
大阪を拠点に置くHIPHOP Crew〈Tha Jointz〉〈J.Studio Osaka〉から Kohpowpow!!
27th years レジテンツ KURANAKA 1945 with 最狂 ZTM Soundsystem!!
2nd Areaにも369 Sound を増設〈NC4K〉よりPaperkraft〈CRACKS大阪〉のFENGFENG、京都〈PAL.Sounds〉より Chanaz、DJ Kaoll and More!!

GOTH-TRAD (Back To Chill/DEEP MEDi MUSIK/REBEL FAMILIA)
Sinta (Double Clapperz)
MileZ (PAL.Sounds)
Kohpowpow (Tha Jointz/J Studio Osaka)
and 27years resident
KURANAKA a.k.a 1945 (Zettai-Mu)
with
ZTM SOUND SYSTEM

Room Two
Paperkraft (NC4K)
FENGFENG (CRACKS)
Chanaz (PAL.Sounds)
DJ Kaoll
Konosuke Ishii and more...
with
369 Sound

and YOU !!!

at NOON+CAFE
ADDRESS : 大阪市北区中崎西3-3-8 JR京都線高架下
3-3-8 NAKAZAKINISHI KITAKU OSAKA JAPAN
Info TEL : 06-6373-4919
VENUE : https://noon-cafe.com
EVENT : https://www.zettai-mu.net/news/2210/15

OPEN/START. 22:00 - Till Morning
ENTRANCE. ADV : 1,500yen
DOOR : 2,000yen
UNDER 23/Before 23pm : 1,500yen
※ 入場時に1DRINKチケットご購入お願い致します。

【予約はコチラから】
>>> https://noon-cafe.com/events/zettai-mu-origins-yoyaku-7
(枚数限定になりますので、お早めにご購入ご登録お願い致します。
 LIMITED枚数に達した場合、当日料金でのご入場をお願い致します。)

【新型コロナウイルス感染症拡大防止対策】
・マスク着用での来場をお願いします。
・非接触体温計で検温をさせて頂き、37℃以上の場合はご入場をお断り致しますので、予めご了承ください。
・店内の換気量を増やし、最大限換気を行います。
・体調がすぐれないとお見受けするお客様がいらっしゃいましたら、スタッフがお声がけさせて頂きます。

【お客様へご協力のお願い】
以下のお客様はご来場をお控え頂きますようお願い申し上げます。
・体調がすぐれないお客様
・37℃以上の発熱や咳など風邪の症状があるお客様
・くしゃみや鼻水などによる他のお客様にご迷惑をかけする可能性があるお客様
・60歳以上の方のご入店をお断りしています 。

その他、会場 WEB SITE : https://noon-cafe.com を参照下さい。

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Twitter (@zettai_mu)

● Special Supported by Flor de Cana

Zettai-Mu “ORIGINS” - ele-king

 大阪の KURANAKA a.k.a 1945 が主催するロングラン・パーティ《Zettai-Mu》あらため《Zettai-Mu “ORIGINS”》の最新回が6月18日(土)@NOON+CAFE にて開催される。2020年以降の度重なる延期を乗り越えてきた同パーティだが、今回 KURANAKA は「30th Anniversary Historic Set」を披露するほか GOTH-TRAD、D.J.Fulltono、ntank と、豪華な面子が集合する。ぜひ足を運びましょう。

Zettai-Mu “ORIGINS"
2022.6.18 (SAT)
OPEN/START. 22:00 -

KURANAKA a.k.a 1945
[ 30th Anniversary Historic Set ] (Zettai-Mu)
GOTH-TRAD
(Back To Chill/DEEP MEDi MUSIK/REBEL FAMILIA)
D.J.Fulltono
(Booty Tune Records/Exit Records/Tekk DJ'z Crew)
??????
ntank (MAVE)
HARUKI
ランプ (sabato)
Vis (PAL.Sounds)
Ascalypso
PACONE
Somae'369
ZTM SOUND SYSTEM (Main Floor)
369 Sound (2nd Area)
and YOU !!!

at NOON+CAFE
TEL : 06-6373-4919
ADDRESS : 大阪市北区中崎西3-3-8 JR京都線高架下
3-3-8 NAKAZAKINISHI KITAKU OSAKA JAPAN
WEB SITE : https://noon-cafe.com
ZETTAI-MU WEB SITE:https://www.zettai-mu.net/news/2206/18/
FB EVENT : https://www.facebook.com/events/739754973706169

OPEN/START. 22:00
ADV. 1500yen (要予約)
DOOR. 2000yen
UNDER 23. 1500yen
※1D別*入場時に1DRINKチケットご購入お願い致します。

【予約登録リンク】
https://noon-cafe.com/events/zettai-mu-origins-yoyaku-6
※枚数限定ですので、お早めにご購入ご登録お願い致します。LIMITED枚数に達した場合、当日料金でのご入場をお願い致します

【新型コロナウイルス感染症拡大防止対策】
・マスク着用での来場をお願いします。
・非接触体温計で検温をさせて頂き、37℃以上の場合はご入場をお断り致しますので、予めご了承ください。
・店内の換気量を増やし、最大限換気を行います。

【お客様へご協力のお願い】
・以下のお客様はご来場をお控え頂きますようお願い申し上げます。
・体調がすぐれないお客様
・37℃以上の発熱や咳など風邪の症状があるお客様
・くしゃみや鼻水などによる他のお客様にご迷惑をかけする可能性があるお客様
・ 60歳以上の方のご入店をお断りしています。
・お年寄りや体の弱い方と同居するなど生活を共に行われている方のご来場はお控えください。
・体調がすぐれないとお見受けするお客様がいらっしゃいましたら、スタッフがお声がけさせて頂きます。

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GOTH-TRAD

様々なアプローチでヘビーウェイト・ミュージックを生み出すサウンド・オリジネイター。
2001年、秋本"Heavy"武士とともにREBEL FAMILIAを結成。"METMORPHOSE"でのデビューライブを皮切りに、Fuji Rock Festivalなど多くの国内フェスに出演。 2007年までに5枚のシングル、3枚のアルバムをリリースする。 ソロとしては、2003年に1stアルバム『GOTH-TRAD I』を発表。国内でソロ活動を本格的にスタートし、積極的に海外ツアーも始める。2005年には、自作楽器・エフェクターを駆使した、実験的な2ndアルバム『The Inverted Perspective』をリリース。同年11月にはMad Raveと称した新たなダンス・ミュージックへのアプローチを打ち出し、3rdアルバム『Mad Raver's Dance Floor』を発表。
『Mad Raver's Dance Floor』に収録されたタイトル「Back To Chill」が、ロンドンのDUBSTEPシーンで話題となり、2007年にUKのSKUD BEATから『Back To Chill EP』を、DEEP MEDi MUSIKから12"『Cut End/Flags』をリリース。8カ国に及ぶヨーロッパツアーの中では、ロンドンの伝説的パーティー"DMZ"にライブセットで出演し、地元オーディエンスを沸かした。以降、海外を中心にリリースを続け、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア等、毎年、世界中でコンスタントにツアーを重ねる。2012年には待望のアルバム『New Epoch』をDEEP MEDi MUSIKからリリースし、Fuji Rock Festival 2012に出演。2009年~2014年にかけて、数々の欧米のフェスティバルにも出演してきた。 2015年、再びダブプレートのカットを始め、完全にVinyl OnlyのDJスタイルにシフトする。
アンダーグラウンドシーンで注目を集めるノイズコアバンド"ENDON"のリミックスを手がけ、5月にMerzbowのリミックスとのスプリット12"が、Daymare Recordingsよりリリースされる。12月には、日本が世界に誇るバンド"Boris"とのコラボレーションイベント"Low End Meeting"を代官山UNITにて開催し、共作"DEADSONG"を披露。 サウンドシステムを導入した、超重低音かつ実験的なアプローチのライブが話題となった。
2006年より始動した自身のパーティー"Back To Chill"は、2014年11月にREDBULL MUSIC ACADEMY TOKYOとスペシャルイベントを開催し、Back To Chillレーベルとして初となるコンピレーション"MUGEN"をリリースする。 記念すべきBack To Chill10周年を迎えた2016年、Boris、Dalekとの共作を収めた4thアルバム"PSIONICS"のリミテッド・ダブプレートバージョンを、特別会員限定でリリース。2017年4月には、台北のKornerにて、Back To Chill初の海外公演を開催した。
2018年9月、ヴォーカリスト"Diesuck"とノイズアーティスト"Masayuki Imanishi"と共に2017年に結成した新ユニット"EARTAKER"の1stデビューアルバム"HARMONICS"が、U.A.E.の気鋭レーベル"Bedouin Records"よりリリースされ、その新たなサウンドに注目が集まる。

A unique producer with a unique style, Goth-Trad has emerged from the Japanese electronic scene in the last decade as one of the most arresting artists from his generation. ‘The Sound Originator,’ Goth-Trad creates remarkable dance music with an abstract approach. Goth-Trad’s music career started in 1998. He soon formed Rebel Familia in 2001 with Takeshi ‘Heavy’ Akimoto (ex-member of Dry & Heavy) while continuing to work on his own. From abstract electronica to noise, from dub and reggae to jungle and rave music, grime to dubstep, Goth-Trad has always experimented and in the process developed his own unique style: blending influences and delivering music that is constantly evolving.
Between 2001 and 2004 Goth-Trad grew his notoriety on the Tokyo underground and went on his first European tour. He also released his first album, Goth-Trad I, and opened for The Mars Volta during their 2004 Japanese tour. His second album was released in January 2005, titled The Inverted Perspective it focused on the improvisational live style he had been developing in previous years and which he would continue to refine to this day. In March he played in Korea and in the summer established a new style called Mad Rave. ‘Mad Rave’ is Goth-Trad’s own take on dance music, refined and musically distilled through years of work.
This led to his third album, Mad Raver’s Dance Floor released in November 2005. Over 10 tracks the album condenses more than 10 years of dance music into an amalgamation of styles which flows seamlessly. The release tour for the album travelled to Berlin, Paris, Metz, London and 8 Japanese cities.
It was with this third album that Goth-Trad would finally break into the international market during 2006 thanks primarily to one track - Back To Chill - which would soon become synonymous with the Japanese dubstep scene. Inspired by the grime sounds he’d heard in London in previous years, Back To Chill also became the name of Goth-Trad’s monthly dubstep night in Tokyo - set up in 2006 - and saw a release on the UK label Skud Beats, his first official single on a non-Japanese label. At the same time Goth-Trad embarked on his fourth European tour, where he met with dubstep pioneer Mala from Digital Mystikz, at the seminal dubstep night FWD>>. This meeting led to Goth-Trad being signed to Mala’s Deep Medi Musik label and become a fixture of the international dubstep scene, which from 2006 onwards grew at an exponential rate and Goth-Trad soon became one of the genre’s most recognised and loved international artists.
From 2007 onwards Goth-Trad received increased support, respect and interest from across the dubstep and electronica scenes worldwide with people like The Bug, Kode 9, Blackdown, Juju and Skream all playing his music and sharing stages with him. Mary Ann Hobbs was also an early supporter on her Breezeblock show on BBC Radio 1.
Goth-Trad released his first 12” single for Deep Medi Musik in 2007, Cut End. That same year he also released a new Rebel Familia album, includ- ing collaborations with legends Arie Up and Max Romeo. He continued to tour extensively in Japan as well as starting more regular European tours where he appeared at the legendary DMZ dances among others. His eclectic and varied live show made him a firm favourite of European audiences and he has toured Europe every year since 2007.
In 2008 he released singles on both Skud Beats and Soul Jazz Records and for the first time he toured China in April. At the same time he continued to grow the Back To Chill nights in Tokyo providing a platform for the burgeoning Japanese dubstep scene. Over the coming years the night would see new Japanese talent added to the resident line up and play host to both local and international guests.
From 2009 to 2011 Goth-Trad continued to tour in Europe, Japan and Asia and released singles on Deep Medi Musik as well as remixes for European and Japanese artists leading to the Babylon Fall EP in late 2011, the precursor to New Epoch his fourth album. New Epoch was released on Deep Medi in early 2012 and marked Goth-Trad as one of the most important voices in dubstep. The album received praise from around the world with the UK’s FACT Magazine heralding it as one of the best dubstep albums of the year.
With New Epoch marking yet another milestone in Goth-Trad’s career, the Japanese one-man army - as Kode 9 once referred to him - is set to continue on his unique path. Always charting new territories while staying true to what motivates him: making good and honest music that reflects the world around him.
After the release of New Epoch, Goth-Trad embarked on his worldwide tour across Europe, US and Asia including many Festivals such as Coachella, Fuji Rock, Outlook Festival, and Lockdown (Natherlands) to name a few. During the tour Goth-Trad was involved with various projects including the Dubspot workshop in New York and a project in Japan called “Z-Machines”, where he was asked to produce a piece of music for the first ever Robot Band. In the UK Fabric, invited him to play and also asked Goth-Trad to provide a mix for the event, around this time Goth-Trad was asked to remix Danny Scrilla and Lea Lea, Goth Trad showed his new direction on both remixes, especially “Lea Lea - Black Or White (Goth-Trad Remix)“ awarded 3rd place on XLR8R’s Best of 2013 : Top Downloads.
Alongside producing and touring, Goth-Trad still runs Japan’s most famous bass driven club night, Back To Chill in Tokyo city every month, inviting the newest local producers to play alongside the scene’s for runners such as The Bug and Kode9.
Not only do Goth-Trad and his team organize and curate the event with cutting edge, stunning visuals but Goth-Trad also provides the sound pressure with his very own soundsystem. In 2014 he collaborated with Red Bull Music Academy Tokyo for “Back To Chill - A Red Bull Music Academy Special Party” which invited American sludge metal band “The Body”. In November 2014, he started his own Back To Chill label.
In 2015, GOTH-TRAD found a dubplate cutting studio “Was Alchemy” near his house, and he restarted cutting dubplates. As can be seen from his approach like the remix for Japanese noise core band “ENDON” and a collaboration with Heavy Rock Band “Boris”, his music was becoming more alternative. In 2016, his Back To Chill night had the 10th Anniversary, and he released very limited Dubplate & USB digital album “PSIONICS”. He featured “Boris” and American Experimental Hiphop MC “Da¨lek” on the limited dubplate.

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KURANAKA a.k.a 1945 (ZETTAI-MU from Japan)

Born in Kyoto, Japan. He is a descendant of the temples of the one of the most famous Buddhist monk in Japan history, the initiator of the Buddhist incantation chanting, drumbeating, and dancing (origin of the Bon festival dance).
 He makes full use of his 11 faces and 1000 arms to continue to be the beacon of peace and revolution, from his underground performances in Japan. His riddim to be combined with his open minded instruments that build-up upon, the Super heavyweight bass that goes back and forth with the whole body, with dub effects that of a beast, letting the floor dance madly with joy.  He is a Dub. Jungle and Sound system music pioneer who has been the undisputed leader in the genres for about 30 years. He has performed at over 2000 gigs, and has organized more than 500 Dances until now. He has organized w famous and important Dance in Japan "Zettai-Mu" began in 1995 (Bay Side Jenny, Namura Shipbuilding, Noon, Liquidroom, Unit, Yellow, Eleven, AIR, Rockets, Motherhall, Quatro, Circus, Open Air and more) it will be 25th anniversary 2020!! and then "Outlook Festival Japan" (ageHa Studio Coast, Sound Museum Vision and more) also "Exodus Island " "A Taste Of Sonar (its first time in Asia Sonar Festival)" "International Dub Gathering Jahpan" as well. He performs about 100 gigs a year for more than 25 years, and tour pilgrimages more than 50 times including Japan, Asia, UK, Europe , British London, Spain "International Dub Gathering" "Outlook Festival" and then active in the Asian countries including Beijing, Shanghai, Hong Kong, Korea, Taiwan, the Philippines, Vietnam, Thailand etc in recent years. and also He did use Sound System for Bass music first time in japan.
 Kuranaka (a.k.a 1945) also has been hugely successful with festival appearances throughout Japan, such as the Fuji Rock Festival, Rainbow 2000, Asagiri jam, Metamorphose, Earth Dance, Saturn, Dommune, Nagisa, Mai Music Festival , Outlook Festival and Sonar Festival. such as art museums (Yokohama Art Museum , Kyoto Museum of Art , London ICA etc), the Valley and seaside, Club Hall of city, the Gap of Building and the top of Desk, and the Your Ears.
and then He declined the offer of contract from many major label of japan also world. chose this way staying normal.
 Kuranaka has also toured Japan with Dub Reggaes such as Lee perry, Jah shaka , Aba shanti-i , Mad professor , Zion Train , Adrian Sherwood , Dennis Bovell etc. then Drum and Bass / Jungles such as Roni size Reprazent, Congo Natty, Shy fx, Andy C and many. More then he play with Daftpunk , James Blake , Darren Emarson Underworld , Ash Ra Tempel , Atari Teenage Riot and many more in First visit japan show. he also Performed Flyng Lotus , Battles , The Orb , Smith&Mighty , Cold cut Ninja Tune etc. ofcouse he also with Japanese Acts such as Boredoms, Dj Krush , Audio Active , Tha Blue Herb , Dry&Heavy , Oki dub ainu , Goma , Goth-trad and many more.
 He perform live set with "Kazufumi Kodama" of Japanese reggae originator from Mute Beat. also Didgeridoo player "Goma" and then The controversial product "the Constitution of Japan" developed by a combination with "Shing02" for two International Art Festival (Yokohama Triennale, Kyoto Parasophia) It was created and released for one year.
 He also creates and plays music with Heavy (Dry&Heavy, Rebel Familia), Ao (Dry&heavy), Goma (didgeridoo), Coba (Accordion), NHK Koyxen, E-da(ex.Boredoms), Iccihie (ex.Determinations) , Tokona-x etc. He released (suchas) DJ Spooky , DJ Vadim also The Bug as the name of "MOU", which is the pioneer Future Beat Music "Electlic Lady Land" from the well-known German's "Mille PlateauxI" Moreover, as the name of "Kuranaka", he attended compilation of "Kyogen" with Calm, Shing02 and so on. Furthermore, as the name of "1945", he released featuring alongside ex-Dry&Heavy's bassist, "Akimoto Heavy Takeshi". also released Mixs called "TIGHT" from "Entotsu Recordings". He(and his Live CDs) amassed the sold out sales including all the titles. As a remixer, he sends deep world, dissembles and reconstructs masterpieces done by On-U Sound (UK) Audio Active , Rebel Familia, Churashima Navigator, Original Love, Jun-Gold (Tha Blue Herb Recordings) and so on. The strong beats with the message is down to earth and very sensitive but mighty sense of "Past", "Now", and "Future". We are fighting against the monsters of our own creation. Remember 1945, Peace one love Harmonic future !!
 Japanese written "クラナカ" also his name in long time ago. and then "The Kaoss Pad" used habitually all over the world is.. Delay, Reverbe, Siren.. It was developed by him. and the his model "Siren Machine" thats using Mala (Digital Mystikz) also The Bug etc.  The message carried out from his strong beat, reaches those of whom both legs are grounded to our earth, is delicate, yet, powerful.. the 21st century taiko drummer, waves his flag to peace and love for a harmonic future. Somewhere, now today.

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★ Sound Cloud -- https://soundcloud.com/kuranaka1945


D.J.Fulltono

大阪を拠点に活動。レーベル〈Booty Tune〉主催。2014年に発表したEP『My Mind Beats』は、米国の音楽メディア『Rolling Stone』年間チャートに選出。ポーランドの『UNSOUND FESTIVAL 2016』出演。2019年、dBridge主催レーベルEXIT Recordsより “Before The Storm EP” をリリース。
シカゴのジューク・フットワークサウンドを、自身のルーツであるミニマルテクノ的な感性でミックス。また、CRZKNYとのプロジェクト〈Theater 1〉や、Skip Club Orchestraらとの〈Draping〉等、160BPMに拘りながら日本発進の独自スタイルを追求している。

Footwork/Juke DJ and Track Maker. from Osaka Japan
DJ/track maker DJ Fulltono comes from the Kansai region, Japan. He runs a label “Booty Tune”. Host of a party “SOMETHINN”. A prolific writer of Juke/Footwork for international medias. Based in Juke / Footwork , his voracious style includes Ghettotech, Electro, Chicago House, and so on. He provides Planet Mu and Hyperdub with privilege DJ MIX CDs. In the mix for Concept Radio, a Spanish web magazine, He pursues Techno-style Juke. In May 2015, he released his 6th EP “My Mind Beat Vol.02. The first one,”My mind beats vol.1”was selected ““20 Best EDM and Electronic Albums of 2015” by the media in US ” Rolling stone ” and that obtained an evaluation from the fan in the world.

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ntank

2000年さいたま市生まれ、京都在住。 自身のパーティMAVEを京都West Harlemにて主宰。日本各地からゲストを招聘し、ダンスミュージックを主軸にバラエティあるパーティとなっている。 様々なジャンルを横断しながら自由に駆け抜けるプレイを得意としている。 また、大阪や神戸等の関西圏だけでなく名古屋や、東京など様々なエリアにてプレイを重ねている。

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interview with Telex - ele-king

ベルギーはヨーロッパの中央に位置する国だし、だから誰もがベルギーを襲ってきた。ローマ人の昔から、ドイツ人、フランス人、スペイン人等々。それくらい行き来が盛んだと、ユーモアの感覚を持たずにはやっていられない。それがないと、死ぬか、裏切り者になるしかないから(苦笑)。


Telex
this is telex

Mute/トラフィック

Synthe-PopTechno

 テクノ四天王などとは言いたくはない。テレックスは仏教徒ではないのだから。しかしテレックスは、クラフトワーク、ジョルジオ・モロダー、YMOらと並ぶ、70年代テクノの始祖たちの重要な一角を占めていることは間違いない。それにしても、テクノにおいてドイツ、イタリア、日本、そしてベルギーというポップの主流たる英米以外の国において突出した個が出現したというのは、一考にあたいする興味ぶかい事実だ。

 とまれテレックスは、その70年代テクノ・ビッグ・フォーのなかでは、わりかしマニアックなポジションに甘んじていた感があった。つまり知る人ぞ知るというヤツだ。そこで、CANの再評価を促した〈ミュート〉の総帥ダニエル・ミラーが、2021年からはブリュッセル生まれの伝説のテクノ・ユニットのリイシューに着手した。で、まずは挨拶状として、『This Is Telex』が4月30日にリリースされる。テレックスの全カタログから選曲されたベスト盤的な内容で、未発表も2曲ある。

 テレックスは、すでに音楽家としてのキャリアのあった3人のベルギー人によって結成されている(そこはYMOと同じだ)。たとえば、その言い出しっぺであるマルク・ムーランなる人物は2008年に他界してしまったが、彼はテレックス以前にはプラシーボなるジャズ・バンドの中心メンバーで、エレクトリック・マイルスへのベルギーからのアンサーとしていまだに再評価が続いたりする。そんな事情もあって、じつはテレックスはレアグルーヴ方面からの注目もあったりするのだ。

 とにかく我々は、ユーモアと実験、ポップへのこだわりをもって挑んだブリュッセルのテクノの始祖たちに話を訊くことにした。ありがたいことに、取材はダン・ラックスマン&ミッシェル・ムアースの2人が同時に受けてくれた。長いインタヴューだが、これを読んだらあなたはますますテレックスが好きになってしまうだろう。若い世代もこれを機にぜひ、テレックスの愉快なエレクトロニック・ミュージックの世界に触れて欲しい。楽しいってことは素晴らしいことなのだから。

いかにしてテレックスは生まれたのか

我々はちょっとスペシャルなことをやりたかったし、単なる「ポップ・ミュージック」ではなく、そこに別の次元が加わった何かをやりたかったんだと思う。

ミッシェルさん、ダンさん、こんにちは。

ダン・ラックスマン&ミッシェル・ムアース:(それぞれ)こんにちは。

今日はお時間いただきありがとうございます。

ダン&ミッシェル:(共に笑いながら)どういたしまして。

まずは今回の〈ミュート〉との再発プロジェクトについて。どのようにこの企画ははじまり、そしてこれから進展していくのでしょうか?

ミッシェル:ああ、今回の『This is Telex』は予告篇に過ぎないんだ。6枚のアルバムからそれぞれ2曲ずつ選んであり、未発表曲を2曲加えてある。うまくいけば今年じゅう、もしくはその後に、(オリジナル・アルバム)全タイトルを再発する予定だ。それに続いて、たぶんリミックス・アルバムが出るよ。素敵な男の子&女の子たちによるリミックスが(苦笑)。

ダン:(苦笑)

ミッシェル:リミクシーズを出す予定だ。

わかりました。で、日本には昔ながらの熱心なテレックスのファンがたくさんいますが、この取材はあなたたちを知らない若い世代のための取材にしたいなと思います。

ダン&ミッシェル:(共にうなずいている)

まずはテレックスの歴史についてお訊きします。結成は、1978年、ジャズ・バンド、プラシーボ(Placebo)解散後に故マルク・ムーラン(Marc Moulin)さんがおふたりに声をかけてはじまったと聞きますが、大体それで合ってます?

ミッシェル:……っていうか、君はもうわかってるよ。質問しなくて大丈夫!(笑)

ダン:たしかに。アッハッハッハッハッ!

(笑)当初あったコンセプトについてお聞かせください。

ミッシェル:うん。彼は以前に、別のプロジェクトでダンと何度かセッションで仕事したことがあってね。わたしもそのプロジェクトに参加していて、そこでマルクが思いついたのは──ダンは、すでに電子楽器に関するスキルで知られていたし、マルクはポップ・ミュージックを作ってみてはどうだろう? と思いついたんだ。それまで彼はジャズ、わたしは地味なフォーク・ロック~ジャズ的な音楽をプレイしていたからね。大衆に受ける音楽をやっていたのはダンだけだった。

ダン:(笑)

ミッシェル:そんなわけで、マルクは何かポップなものを、欧州大陸発の、ギターを使わない音楽をやりたいと考えたんだ。当時電子音楽は盛り上がりつつあったし、そこで彼はまずダンに声をかけ、彼らふたりはわたしをシンガーとして参加させるのに同意してくれた、と。

ダン:(苦笑)

ミッシェル:(笑)彼らが望めば、他にもっといいシンガーはいただろう。

ダン:アッハッハッハッハッ!

ミッシェル:とはいえ、歌の上手い/下手だけではなく、わたしの物事の考え方や曲の書き方等々が新しかったから、それで参加することになった。

ダン:その通り! でも、もちろんシングル1枚だけ、とは思っていなかったよ。我々はちょっとスペシャルなことをやりたかったし、単なる「ポップ・ミュージック」ではなく、そこに別の次元が加わった何かをやりたかったんだと思う。テレックスをやる前からマルクと仕事したことがあったのは事実だよ、あれはたしか、プラセーボの最後のアルバムのひとつじゃなかったかな? ブリュッセルの大きなスタジオで、わたしはシンセサイザーで協力してね。で、スタジオでの休憩中にマルクから「我々で電子音楽のグループを結成するのはどう思う?」と尋ねられて、ものすごく驚いたし、即座に「もちろん!」と答えて。
 とはいえ、自分たちにはもうひとりのパートナー、兼シンガーにもなってくれる第三の人物が必要なのはわかっていたし、ミッシェル・ムアースはどうかな? という話になった。ミッシェルとは、我々の一緒にやっていたレコーディングのひとつで出会ったばかりだったし、わたしもそれはいい、オーケイ! 試しに彼とやってみようじゃないか、と。
 わたしはあの頃、まあ「ホーム・スタジオ」と呼んでいいくらいの設備を自宅に構えていて、セミプロ級の8トラック・マシンも持っていた。でも、まずはそれで充分だったんだよ、我々がやりたかったのはシンプルなことだったから。8トラック、そして非常にベーシックなエレクトロニック機材、ヴォーカルで事足りるだろう、と。
 というわけで改めて1日一緒に集まることにし、スタジオで「さて、試しに何をやってみよう?」と話し合った。そこで、とても有名なフランス産の大衆ポップ曲、“Twist a St. Tropez”(※Le Chats Sauvages/1961)を取り上げ、それを作り替えてみよう、ということになった。オリジナルの歌詞はキープしつつ……あの歌詞は、非常に、なんと言えばいいのか……

ミッシェル:シュールレアリスティックだった。

ダン:そう、シュールな内容だったし、原曲のテンポをできるだけスローなものに変えてみたところ──突如として曲のトーンも非常に単色で、ヴォーカルもフランジャーがかかったものになり、自分たちも完全に「これはいい」と思えるものになった。というわけで、その日のうちにラフ・ミックスをカセット・テープに録り、たしかその後、翌日か、その2日後くらいだったかな? マルクはたまたま、我々の共通の知り合いと話していたんだ。彼は当時新興の、我々も知っていた〈RKM/Roland Kluger Music〉というレコード会社で働いていた人で、マルクが彼にデモを聴かせたところ「いいね、気に入った。上司(ローラン・クルーガー)に聴かせる」と。それでデモを聴いてもらい、すぐにレコード契約に至った。ところが「やばい、1曲しかない」と気づいて(苦笑)、B面用にもう1回セッションをやることになった。そもそもデモだった“Twist a St. Tropez”にトラックをひとつ付け足しリミックスしたものを作ってB面に入れ、それがテレックスにとってのファースト・シングルになった、と。

ミッシェル:“Twist a St. Tropez”のいいところは、我々が最初に抱えた疑問が「オリジナルを聞き返すべきかどうか?」だった点だね。というのもあの曲、原曲はずいぶん古くて、あの20年くらい前に出たのかな?

ダン:60年代のヒット曲だ。

ミッシェル:10年か20年近く前の古い曲だし、聞き返さずにカヴァーすることにしたんだ。記憶に頼ってカヴァーした、みたいな。

ダン:うん。

ミッシェル:だからこそ原曲の「コピー」にならずに、ほぼ自分たちの言語で作り替えることができたという。

3人がグループをはじめた当初は、シリアスな思いよりも、むしろ実験してみよう、というのに近かったでしょうか? テレックスというグループのヴィジョンは最初からはっきりしていた? それとも続けていくうちにそれが見つかった感じですか?

ミッシェル:そもそもの発想は、自分たちも気に入る、と同時にラジオやクラブでもかかる音楽を作る、というものだったね。けれども、さっき話したようにポピュラー音楽を作っていたのはダンだけだったし、わたしとマルクの音楽はもうちょっと一般には知られないものだった。そうだね、人びとにもっと聴いてもらえるものを作ろう、というのがアイディアとしてあった。

ダン:ああ。それに、我々もスタジオで楽しんだんだよ。たとえば、ファースト・アルバム用のセッションの際も「よし、今日は何をやろう?」「こんな曲にトライしたらどうだ?」という具合で、機材のスウィッチを入れてね。“Twist a St. Tropez”だと、まずあの曲のシークエンスからスタートして、例の(同曲のリフ・メロを歌う)♪ダダダ・ディ・ダダダダ……と弾いてみた。非常にシンプルなメロディだし、では続いてテンポに取り組もう、と。もちろん当時コンピュータはなかったし、テンポにしてもボタンをマニュアルで操作してスピードを落とす/上げるしかなくてね。で、テンポをどんどん落としていき、いいじゃないか、これでよし、というところまで遅くしていった。1曲目はそんな具合で、メインのシンセ・メロに続いて他のトラックをひとつずつレコーディングし、ヴォーカルを録り、ミックス。次は何をやろう? じゃあ、パリからモスクワに向かう列車についての曲はどうかな、ディスコなパートのある曲を? と。いいアイディアだ、やろうということになったし、さて、列車か。じゃあ、それを蒸気機関車だと想像してみて、ハイハットを通常のサウンドではなく、♪チチチチチチッ……という響きにして蒸気に見立てよう、と(編註:テレックスの大ヒット曲“Moskow Diskow”のこと。曲の冒頭ではポッポーという機関車の音が入っている)。そんな具合で、我々は本当にひとつひとつ作っていったし、かつそれを楽しんでいた。それに尽きる。

ミッシェル:アルバムを作ったとき、マルクはいろいろ考えていたと思う。

ダン:ああ、もちろん。単にマシンでやっただけではない。

ミッシェル:わたしにしても、いくつかデモを作ってきたし、あの頃はギターで作ったね。

ダン:もちろん、うんうん。

ミッシェル:だから、何もロマンチックなおとぎ話のように、「マシンに電源を入れたら、すぐに何もかも出来上がり」なわけではなかった。歌詞にしても、ちゃんと書いたしね。

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シンセサイザーの発見

“Twist a St. Tropez”のいいところは、我々が最初に抱えた疑問が「オリジナルを聞き返すべきかどうか?」だった点だね。

ダンさんは、70年代の早い時期からモーグを演奏されていますよね。

ダン:その通り。

テレックスの前にも『Disco Machine』というアルバムをThe Electronic System名義で発表したりしていますが、そもそもどうして電子楽器、シンセサイザー等に興味をもたれたのですか?

ダン:フム、それはたぶん、わたしは……音楽は多少勉強したけれども、キーボード奏者としてはあまり腕がよくなかったんだ。ミスも多かったし、楽譜もちゃんと読めなくて。で、マシンが登場したとき、わたしはまだ若いスタジオ技師だったけれども、新たなサウンドを出せるマシンに対して即座に興味が湧いてね。その点は自分にもすぐわかったし、実際、当時一般市場に出回った最初のシンセの一台をなんとか購入することもできた。モーグではなく、EMS VCS3というマシンだった。スタジオに置いてあったら、実物を君に見せてあげることもできるんだが……いまでも作動しているよ。でまあ、たまたまマシンを入手することができて、あれは1972年だったかな? 71年か72年のことだったと思う。ポピュラー音楽界にも突如として“Popcorn”(ホット・バター/1972)や“Switched on Bach”(ウェンディ・カーロス/1968)といったヒットが登場し出し、人びとも突然、シンセサイザーを発見しはじめた。
 で、そんな自分もスタジオにシンセサイザーを一台持っていたし、シンセをレコードで使いたがっている人びとのためにマシンをプログラムすることができるな、と思った。そんな風にして始まったんだ。みんなに「シンセを持っているから、エレクトロニック・サウンドを使いたかったら言ってくれ」と声をかけたし、おかげでそれがメインの仕事になっていった。
 フリーのエンジニアとしても働いていたものの、シンセサイザーのプログラマーとしての仕事の比重がどんどん大きくなっていって。そのうちにチャンスが訪れ、ソロとして最初のアルバムを作ることになった。“Coconut”というヒット曲を出してね。あれは世界各国で売れたし、日本でもヒットしたはずだ。スペインでは1位になったと記憶している。その成功で得た収入で、税金を払う代わりに、わたしは大型のモジュラー・シンセサイザーを買ったんだ。あのおかげで大きなモジュラー機材に投資することができた、と。あれがきっかけになって、ヴォコーダー等々、いろんな機材を買っていった。
 で、さっき君も言ったように、The Electronic Systemの最後のアルバムが『Disco Machine』で、あの作品でわたしはシーケンサーで実験していたんだ。まだ機材としてはプロトタイプの段階だったけれども、シーケンサーを使ってインスト・アルバムを作ろうと思った。だからたぶん、そうした何もかもがテレックスのはじまりを準備していたんだろうね。マルクにはそこがわかっていたんだと思う。彼とわたしは、我々がミッシェルと出会う以前に、わたしの狭いスタジオでアルバムを3枚レコーディングしたことがあったから。
というわけで、すべての要素はすでにあった、という。だからなんだよ、さっき「マシンに電源を入れたら、我々の準備はオッケー、レッツゴー」みたいに話したのは。というわけで……これが質問の答えになっているかどうかわからないけれども、うん、電子音楽機器には最初から興味があったよ。

ミッシェルさんは作曲家であり、デザイナーでもありますが、テレックスではどんな役目を負っていたのでしょうか? 作曲がメイン? それともヴィジュアルやコンセプト面を主に担当していたのでしょうか?

ミッシェル:いや、コンセプトは3人で考えたもの。でも、コンセプト面は主にマルクの範囲だったね。わたしはあの当時、建築家だったんだ。だから、音楽をやりつつ、建築仕事も掛け持ちしていた。ベルギーの都市計画等々のね。あの頃、ベルギーは新たな都市を作ろうとしていたんだよ。

■そうだったんですね。

ミッシェル:あれはたぶん、ベルギーで作られた唯一の「ニュー・シティ」だったんだろうな、というのも、この国はとても小さいし。

(笑)

ミッシェル:まあ、それはさておき──テレックスでのわたしの役割は作曲で、主に歌詞を担当した。それに、うん、レコード・スリーヴも何枚か手がけたな。写真家でもあるんだ。建築写真は結構撮ってきたし、音楽も作ったことがあるし、掃除も得意だ。

(笑)

ミッシェル:(笑)でも、テレックスでは主に、作曲面だったね。歌詞をメインで担当していたし、でも、何もかもをわたしひとりで書いたわけではない。

ヴィジュアル面やコンセプト的なところはいかがですか? すごく印象的ですし、たとえば『Neurovision』他で、エヴァ・ミューレン(Ever Meulen)のイラストを使っています。

ミッシェル:うん。

あなたたちにとって、ヴィジュアル面も、音楽と同じくらいに重要だったのでしょうか?

ミッシェル:というか、実は我々は、テレックスというグループとして、自分たちの顔を表に出したくなかったんだ。となったら一番いいのは、(本人たちの写真ではなく)ドローイングに代弁してもらう、ということで。実際、最初のうち、“Twist a St. Tropez”の頃はマスクをかぶっていた(※同曲のヴィデオでは、メンバーはゴーグルをかぶっていて顔が見えない)。でも、結局マスクは外さざるを得なくなってね、ドイツにテロリストがいたし、レコード会社から「テロリストのように、素性を出さずに顔を隠すのはまずい」と言われて。

(笑)

ミッシェル:(笑)だからなんだ、我々が正体を現すことになったのは。それにあの当時は、音楽業界側にもそういう思考を受け入れる準備が整っていなかった。いまだったら、ダフト・パンクがいるけれども。

たしかに。

ミッシェル:ただ、我々にとっては、音楽そのものの方が自分たち自身より重要だった。それに、ベルギーは国としてとても小さいから、常に副業を持っていないと音楽だけではやっていけなかった。ダンはエレクトロニック界でいろいろやっていたし、マルクもラジオの仕事をやっていた。

ベルギー人にユーモアは不可欠だ

たぶん……ユーモアはベルギー特有のものだろうけれども、それに加えて、我々がブリュッセルに住んでいるというのもあったと思う(苦笑)。というのも、典型的なブリュッセル人には、やや懐疑的なところがあってね。


Telex
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Mute/トラフィック

Synthe-PopTechno

クラフトワークやジョルジオ・モロダーからの影響があったのはわかるのですが、テレックスは彼らよりも遊び心とウィット、ユーモアがあったと思います。ユーモアについてのコンセプトもテレックス結成当初に話されていたと思うのですが、1997年にベスト盤『I Don't Like Remixes』を出したときも、2006年に『How Do You Dance?』で復活したときもテレックスは最後までユーモアを貫きましたよね。なぜそこまでユーモア、笑い、ギャグに強いこだわりを持っていたのでしょうか?

ミッシェル:思うに、それは……我々は、ここ(ベルギー)は、漫画に囲まれているわけでさ。エルジェの『タンタンの冒険』をはじめとしてね。それがどこから発しているかと言えば、ベルギーはヨーロッパの中央に位置する国だし、だから誰もがベルギーを襲ってきた。ローマ人の昔から、ドイツ人、フランス人、スペイン人等々。それくらい行き来が盛んだと、ユーモアの感覚を持たずにはやっていられない。それがないと、死ぬか、裏切り者になるしかないから(苦笑)。だから、我々のユーモア感覚はそこから来たんじゃないかとわたしは思う。それにもちろん、漫画文化もある。こっちでは“la ligne claire”と呼ぶんだけど……英語ではなんて言えばいいかな、『タンタン』がいい例だけれども。

ああ、「clean line」のことですね(※筆致の強弱がなく、陰影もつけない、平坦な画風のドローイング。日本大正時代のジャポニズム版画からも影響を受けたとされる簡潔な輪郭線と色彩の画法で、フランス/ベルギー圏のバンド・デシネに用いられた)。

ミッシェル:そう。で、我々の音楽も最初のうちはそんな感じだったんだ。それに──ユーモアの感覚もたまにある、っていうのはいいことなんだよ。音楽がおふざけになるのはよくあることだけれども、音楽でユーモアを醸すのは楽ではないから。

だと思います。たとえば映画にしても、真面目で重い映画だと誰もが「これは重要な作品だ」と言いますが、ユーモラスなコメディ映画だと、どんなによく作られた作品であっても軽んじられがちですし。

ミッシェル:そう。悲しいものを作るのがアートだ、と思われているからね。

ユーモアは、実はすごく難しいアートだと思います。

ダン:それもあったし、たぶん……ユーモアはベルギー特有のものだろうけれども、それに加えて、我々がブリュッセルに住んでいるというのもあったと思う(苦笑)。というのも、典型的なブリュッセル人には、やや懐疑的なところがあってね。たとえばブリュッセル人は、「ああ、もちろん!(yes, of course!)」と言いたい場面でも、ストレートにそう言わずに「いや、たぶんそうじゃないの?(no, maybe?)」と答えるんだよ。

(笑)

ダン:だから、いまミッシェルの言ったことに加えて、そこもあったんじゃないかと思うよ、我々がこう……やや「距離」を置いた音楽を作ったのは。音楽そのものは真面目に作っていたけれども、と同時に、そこに若干の距離も置いていた。要はロックンロールっぽいものだったわけで、そんなに「生真面目に」シリアスになることはないだろう、と。

(笑)。しかし、ただでさえ70年代末の当時は、まだエレクトロニック・ミュージックはシリアスに捉えられていなかった時代でしたよね。そんななかで、テレックスはさらにふざけていたように見えたから、ますますその作品がシリアスに評価されることはなかったというような話をムーランさんがされています。テレックスはリアルタイムではさほど評価されず、そこにフラストレーションを感じたことは?

ミッシェル:いいや……。

ダン:ノー、それはないなぁ。

ミッシェル:そこまで(評価は)悪くなかったし(苦笑)。もしかしたら唯一、ベルギーではそうだったかもしれないよ。というのも、我々のサクセスは国外発だったから。マルクはラジオでDJもやっていたけれど、彼は絶対に、自分のやっている音楽はラジオでかけなかった。だからあれは……

ダン:英語でどう言えばいいかわからないけれども、ベルギーではこういう意味のフレーズがあるんだよ、「生まれた国では誰も予言者になれない(Nobody's a prophet in his own country)」という。

ミッシェル:うん。

ダン:だから、ベルギー国内よりも国外でもっと成功を収めることになる、と。それに、ベルギー人というのはあんまり──フランス語では「chauvin(排外的な、熱狂的な愛国心)」と言うけれども、それほど強く自分自身を誇りに思っていないんだ。非常にchauvinなフランス人とは反対だよね、フランス人は(声色を強めて)「これはフランス産である、だからいいに決まっているではないか!」みたいな感じで。

(笑)

ダン:ところがベルギーでは、フランスのほぼ反対というのかな、(消極的な口調で)「我々はベルギー人です……」という感じだし。とは言っても、実は我々はいろんな面でクオリティは高いんだ。それは、さっきミッシェルも言っていたように、ベルギーはとても小さな国だからであって。たとえば、ベルギーのスタジオの人気が非常に高いのは、とてもいいスタジオだからであって。たぶん、小さな国だし、隣国と競い合う必要もあり、だからどんなスタイルの音楽にも対応できるいいスタジオになっていった結果じゃないかと。というか、それは世界じゅうどこでも同じだろうね。
 それに、ベルギー人というのは、たしかにユーモア感覚もあるけれども、他国と較べるととても自意識が強いところもあって。これはまあ……非常に大雑把な話だけれども、わたしはたまに、人びとが「自分はすごいことをやった!」と自慢して触れ回っているのを見て驚かされる。というのも、実際はそんなに大したことじゃないんだから。いやまあ、たしかにその人間はいい仕事をしたのかもしれないよ? けれども、別に奇跡的にすごい、というほどのことではないわけで──

ミッシェル:──我々は謙遜しがちなんだ。

ダン:そう、その通り。

ミッシェル:でも、ダンの言う通りだよ。我々が“Twist a St. Tropez”をリリースしたとき、ラジオでちょっと流れはじめてね。で、その頃行きつけだったカフェで、わたしが音楽をやっていると知っていた人に出くわして、その人は「聴いたかい? この曲(=“Twist a St. Tropez”)、最高じゃないか! でも、これがベルギー産のはずがない」と。

ダン:その通り。

ミッシェル:(苦笑)当時、我々はマスクをかぶっていたし、誰も正体を知らなかったんだよ。はじめのうちは自分たちが誰か明かさなかったし、それは我々3人にはそれぞれ異なるバックグランドがあったし、いろいろと悪口を言われそうだな、と。でも、リアクションは「いや、こりゃ絶対にベルギー産のはずがない!」だったっていう。

ダン:「ベルギー産だってぇ?」と。

(笑)。で、質問を作成した方は、ブリュッセルには90年代に2回(91年と98年)、2005年に1回行ったことがあるんです。古い街並みが美しくて印象に残っていて、91年に行ったときは、メインはアントワープのファッション・シーンの取材だったんですが、レコード店にはレイヴ音楽が溢れておりました。

ダン:うんうん(とうなずいている)。

で、テレックスが始動したころ、ブリュッセルにはあなたがた以外にも刺激的な音楽のシーンはあったのでしょうか?

ダン:……(困り顔で)ハッハッハッハァッ! ミッシェル、憶えてる?

ミッシェル:そうだねえ、ひとり、アルノー(おそらくArno Hintjensのこと)という男性アーティストがいたし──

ダン:たしかに、彼はもういたね。

ミッシェル:それに、わたしも好きだった、デウス(dEUS)というバンドもいて……

ダン:えっ? 彼らは70年代から活動していたっけ??

いやいや、90年代のベルギー・シーンではなく、70年代の話なんですが(※90年代のベルギーの話を枕にしたので、混乱させたようです)。

ミッシェル:ああ、そうか、オーケイ。70年代ね。

ダン:ぶっちゃけ、思い出せないなあ。憶えてる?

ミッシェル:いや、80年代に入ったら、一群のグループがいたよ。主に、イギリスから来た連中で。

ダン:ああ、そうだった。だから、ベルギーの「自国産」という意味では、ビッグなアクトはひとつもいなかったね。人気があったのは女性シンガー、あるいは北フランス出身のグループぐらいで。だからあの当時成功したものといったら、主にフランス発のヒットと、そしてイギリスから来たグループとに分かれていたね。

ミッシェル:でも、その後に〈クレプスキュール〉勢なんかも登場した。

ダン:そうだった。

ミッシェル:でも、彼らはそんなに人気が高かったわけではないし……

ダン:たぶん、我々がスタートした頃と言ったら、プラスティック・ベルトラン(Plastic Bertland)の“Ca Plane Pour Moi”(1977)が大きかったんじゃない?

プラスティック・ベルトランはパンク寄りなノヴェルティ・アクトで、エレクトロニック・ミュージックとはあんまり関係がない印象ですが。

ミッシェル:ああ、音楽的にはそうだね。

ダン:そうかな? でも……

あの頃だと、ボウリング・ボールズ(The Bowling Balls)なんかもいましたよね。

ダン&ミッシェル:ああ、イエス。

彼らも、ジョーク半分なグループだったようですが(※The Bowling Ballsは、漫画に登場する架空のバンドを具現化した、フェイクな企画ものグループ)。

ミッシェル:彼らは、もっと冗談寄りだったと思う。

ダン:たしかに、彼らは非常にジョークっぽかった。だけど、メンバーはいい連中でね。ミッシェルもわたしも知っているけれども、主要メンバーのひとりのフレデリック・ジャナー、彼もわたしの少し後にEMSシンセサイザーを買ったんだよ。彼もエレクトロニック・ミュージックを作りたがっていたからね。それに漫画家でもあったから、彼は常に「音楽をとるべきか、それとも漫画の道を進むべきか?」と悩んでいたね。でも、結局彼はどちらもやることにしたし、そんな彼の音楽作品のひとつがボウリング・ボールズだった。そう言っても、あれは友人仲間が集まってやったものに過ぎないし、実際、アルバムも1枚しか残していない。ただ、やっていて楽しかったし、あれは純粋に……英語だとどう言えばいいのかな、まあ、ジョークとして、お楽しみとしてやったことだったんだろうね。

ミッシェル:でも、彼らには、少なくともいい曲が2曲あったと思う。

ダン:ああたしかに、いい曲だった。それに、君にも見せてあげようか(と、立ち上がってアナログ盤を引っ張り出す)。フレデリック・ジャナー、彼は、わたしのレコードのスリーヴのイラストを描いてくれたんだ(見せてくれたのは、『The Electronic System Vol.2』のジャケット)。

素敵なジャケですね!

ダン:彼と出会ったきっかけは、彼から「VCS3を買うべきか、それともミニ・モーグを買うべきだろうか?」と相談を受けたことでね。で、わたしの答えは、「もしも君が、単にサウンド/音符を出したいだけではなく、ちゃんとエレクトロニック・ミュージックをやりたいのなら、VCS3の方がもっと可能性があるよ」と。で、彼も助言にしたがってVCS3を購入したし、「ありがとう」の意味を込めて、ある日、このイラストをわたしに残してくれてね。こちらとしても、ああ、これは完璧だ!と。ちょうど2枚目のアルバムを出そうとしていたし、これをジャケットに使わせてもらうよ、と。というわけで、この絵はボウリング・ボールズをやっていた、フレデリック・ジャナーの手によるものなんだ。


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『This Is Telex』と今後の展開

『This is Telex』の「これぞテレックス(This is Telex)」というタイトルは、テレックスの何たるかを示すと共に、おそらく、テレックスを知らない若いリスナーも「これがテレックスなんだ」と思ってくれるだろうし。


Telex
this is telex

Mute/トラフィック

Synthe-PopTechno

『This Is Telex』の選曲について教えてください。ダニエル・ミラーが選曲したんですか?

ミッシェル:〈ミュート〉が選曲してくれた。

ダン:うん、〈ミュート〉によるものだ。で、我々も「これはいいアイディアだ」と思ったんだよ、というのも、『This is Telex』は、さっきミッシェルも言ったように一種の予告編であり、いわゆる「ベスト盤」ではないからね。そうは言っても、割りと有名なヒット曲も含まれてはいる。ただ、アルバム6枚からそれぞれ2曲ずつ収録するというアイディア、これは素晴らしい。それに、このアルバムのタイトルだよね。「これぞテレックス(This is Telex)」というタイトルは、テレックスの何たるかを示すと共に、おそらく、テレックスを知らない若いリスナーも「これがテレックスなんだ」と思ってくれるだろうし、各アルバムから2曲、そして未発表曲も2曲含まれていて……

格好のテレックス入門編、イントロダクションだろう、と。

ダン:そうそう、イントロダクションだね。

“Rock Around The Clock”や“Dance To The Music”のカヴァーは当時としては画期的でした。テレックスにとって誰かの曲をカヴァーするというのはどんな意味があったんでしょうか?

ミッシェル:最初のうちは、我々自身のヴォキャブラリーを見つけるための手段としてやっていたんだ。

ダン:うん。

ミッシェル:ところが続けていくうちに、ポップ音楽のカタログみたいなものになっていった。たとえば、最初にやったカヴァーはロックンロール味のフレンチのイェ・イェ・ポップだったし、遂にはメキシコの“La Bamba”も取り上げた。だから、世界じゅうのポピュラー・ミュージックのカタログのようなものになったし、そこがポイントだった。ジャンルを越えて、それらを我々のものにする、という。かつ、どの曲もほぼ、原曲よりテンポを落としたものだったね。

ダン:ああ。

ミッシェル:誰にでもアピールするように(笑)

ダン:テンポがゆったりしていれば、誰でも踊れるからね!(笑)

“Moskow Diskow”はどのくらいヒットしたのでしょう? ベルギーよりも、むしろヨーロッパ全土でヒットした感じだったんでしょうか。

ミッシェル:というか、あの曲は世界的にヒットしたと思うよ。

ダン:そうだね。

ミッシェル:我々にとってのメイン曲というか、面白いもので、あの曲は我々の編集盤には大抵含まれる。だからおそらく、人びとがもっともよく知っている曲があれになるだろうね。もしかしたら彼らは、「テレックスの曲だ」とは気づかないまま聴いているのかもしれないが。

なにゆえテレックスはディスコないしはダンス・ミュージックであることは意識したのでしょう? ディスコというのは、初期のエレクトロニック・ミュージックにおいてもっとも自由に実験ができる場だったのですか?

ミッシェル:……自分たちとしては、「ダンス・ミュージックを作っている」という思いで音楽を作ったことはなかったんじゃないかと思うけどなぁ……?

ダン:まあ、“Moskow Diskow”は除いていいんじゃないかな。あれは、列車の中にディスコテークがある、というアイディアから生まれた曲だし。ただ、それ以外では、ミッシェルの言う通りだ。

ミッシェル:(フーッと嘆息)とにかく、テンポをああやって調整しただけだし。わたしは、たまにクラブ等に踊りに行ったことはあったよ。でも、他のふたりが踊っている姿を見かけたことは一度もないし──それより、ふたりが椅子に腰掛けている姿なら思い浮かべられるけどね!(苦笑)

ダン:ハッハッハッハッハッ!

ミッシェル:とにかく自分たちにとって気持ちがいい音楽を作っていたし、「ダンス・ミュージックを作ろう」という思いでやったことではなかったと思う。結果的にダンス・ミュージックになった、ということであって。

なるほど。“Rock Around The Clock”(1979)でリミックスを手掛けるPWL(ピート・ウォーターマン)とはどうやって知り合って、お互いどんな関係で仕事をしたのでしょう?

ダン:彼とは、〈RKM〉のローラン・クルーガー経由で知り合った。ローランだったんじゃないかな、彼にあのリミックスを依頼したのは? どう思う、ミッシェル?

ミッシェル:(考えながら)彼は、我々がBBCの『Top of the Pops』に出演した際について来てくれたんじゃなかった?

ダン:ああ、そうだ! 彼に会ったのは、あれがはじめてだった。

ミッシェル:で……そうして知り合ったし……

ダン:そうそう。

ミッシェル:でも、それ以外は──(苦笑)いや、可笑しかったのは、彼はリミックスをやってくれたけれども、あの曲にサックスを加えたんだよね。

(爆笑)

ダン:(笑)なんたる悲劇!

ミッシェル:(苦笑)でまあ、あれはちょっと、ヘンだった。

ダン:ハッハッハッハッ!

ミッシェル:(グフフッと吹き出しながら)あれは、我々のユーモア感覚の度すら越えていたよ。

(笑)サックスは、さすがにちょっとクサそうですね。

ミッシェル:どうだったんだろう? とにかく、あれは我々には理解できなかった。というか、リミックスを気に入ったことは滅多にない。だから、自分たち自身でいくつかリミックスをやったんだしね。でもまあ、時代的にも早かったんだと思う。リミックス自体、まだそんなに一般的ではなかったし。

ダン:そうだね。

ミッシェル:だからきっと、彼もいろいろ試していたってことだと思う。気に入らなくて、ごめんよ(笑)

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細野さんとの思い出

細野晴臣さんとコシミハルさんがスタジオを訪れたときのことは憶えていますよね? 

ダン:ああ、もちろん!

彼らの“L'Amour Toujours”もとても洒落ていましたが、当時どんな風にセッションがはじまったのか教えて下さい。細野さんがあなたたちにアプローチをかけたんでしょうか?

ダン:ああ、そうだよ。

ミッシェル:この話は、ダンに任せる。あのとき、わたしはヴァカンスに出かけていてスタジオにいなかったから(苦笑)

ダン:うん、彼(細野さん)が連絡をとってきて、ごく普通に、スタジオをブッキングしたんだ。わたしとしては「なんと!」と驚いたけれどもね、イエロー・マジック・オーケストラのメンバーが自分のスタジオに来るなんて、と思ったし、3日間のブッキングだったな。とてもシンプルなセッションだったよ。彼らがスタジオにやって来て、彼は英語を喋らなかったし、残念なことにわたしは日本語を喋らなかった。それで、とてもナイスなフランス人の通訳氏、たしか東京在住の人だったはずだが、彼が現場での通訳として付き添ってくれてね。ところが、彼にはほとんどやることがなかったんだ、というのも、音楽を通じてであれば、言葉を使って会話する必要はないから。それに、彼(細野さん)と自分のやっていることが非常に似ているのにも気づいた。わたしは非常に初期のシーケンサーのひとつ、とても複雑な、ローランドのMC-4という名前の機材を持っていてね。で、あれはMIDIやコンピュータ以前の時代のシーケンサーだったから、何もかも自分でプログラムを打ち込まなくてはならなかったんだ。あれでシークエンスを作るのは面倒で悪夢のようだったけれども、彼の打ち込みのスピードはあっという間、本当に早くてね! で、彼は「モーグ・モジュラーで曲をやろう」と言ってきて、我々は主にモーグのモジュラーを使い、一方で彼がシークエンスをプログラムしていき、それをレコーディングした、と。あれはファンタスティックな3日間だった。
 それに、さっきも言ったように、我々は言葉が通じなくても大丈夫だったんだ。それはグレイトだったし、思い出すよ、通訳氏が「僕は不要みたいなので、外に出かけるとします。あなたたちだけで放っておいて大丈夫でしょう」と言ったのは。そんなわけで我々はレコーディングを進め、ヴォーカルを録り、以上、と。そして彼はテープを……あの曲のミックスは、わたしがやったんだったかな? ミックスも、もしかしたらやったかもしれない。ともかく……ああ、たしか彼は、当時世界ツアーをしていたんだったと思う。で、レコーディングをやった何週間か後に、レコード会社から完成したアルバムが届いた、と。とてもシンプルで、とても素敵な、とてもいいお土産をもらったね。あれは素晴らしかった。

あの頃、もうイエロー・マジック・オーケストラのことはご存知だったんですね。

ダン&ミッシェル:うんうん、もちろん。

テレックスは、ときに「ベルギー版クラフトワーク」、あるいは「ベルギー版YMO」とも称されますよね。

ミッシェル:(苦笑)

もちろんそれぞれ異なる個性のグループとはいえ、そういった意味でYMOにはどこかしら親近感も抱いていましたか?

ミッシェル:ああ。

ダン:自分と彼(細野さん)の仕事の仕方がどれだけ近いかに気づいたときは、とても驚かされたんだ。それもあったし、彼がモーグを好きというのにも驚いたね。日本には自国産の素晴らしいシンセサイザーがたくさんあるのに、彼はポリ・モーグのサウンドが好きで、あれは珍しかった。実際、可笑しかったんだが──あの何年か後、90年代に、わたしの新しいスタジオで日本人プロデューサーと仕事する機会があったんだ。残念ながら、彼の名前は忘れてしまったけれども。で、彼は細野氏の友人だそうで、わたしのスタジオに来てびっくりしていた。「細野さんのスタジオと同じですよ!」と。

ミッシェル:(笑)

ダン:で、ふと思い出したのが、そう言えば細野氏は、スタジオにいたときやたら写真を撮っていたっけな、と。

(笑)

ダン:(笑)だから、もしかしたら彼は自分のスタジオを、わたしのスタジオに少し似せて編成したのかもね? それはまあ、笑える逸話、ということだけども。

ちなみに、ダンさんのSynsound Studioはレコーディング・スタジオとしていまでも続いているんですね。

ダン:ああ。

しかもシンセサイザー(アナログ&デジタル)やサンプラー、ドラムマシンなど、70年代~80年代の貴重な機材が揃っています。やはりこういった機材がそうとうお好きなんですね?

ダン:そう。いま、君がスタジオにいないのが残念だね、こっちにいたらあれこれと見せてあげられるんだけれども。でも、うん、モジュラー・シンセはいつでも使えるよう整備してあるし、しかもミニ・モーグも新たに買った。わたしがもっとも好きなシンセサイザーは、もちろんアナログだ。ちなみに、アナログ・シンセはまた人気が再燃しているんだよ。

ですよね。

ダン:どうしてそうなったかと言えば、音響制作機材の進化はあったものの、その基本であるアナログ・シンセサイザーに再び立ち返ったということじゃないかと思う。だから、自分自身のサウンドを作る必要があるんだよ。どれだけプリセット他のサウンドがあったとしても、サウンドを考え、それを自分で作り出さなくてはならない。ただ他から音を盗んできて、それを何かに作り替えることのできるサンプラーとはわけが違う。だから、アナログ・シンセにやれることは少ないかもしれないけれども、そのぶん逆にクリエイティヴになれると思うんだ。
 というのも、本当に自分で一からはじめなくてはならないし、電気からサウンドを作ることになるから。本当に興味深いのはそこだ。というわけで、うん、わたしはまだいろいろやっているし、この取材の後にスタジオに入り、新たに曲を作るつもりなんだ。ベーシックなアイディアが浮かんでいるし、それをマシンにフィードして新しい曲を作ろうかな、と。スタジオ・エンジニアとして働くのも好きだけれども、できれば自分がやりたいのは、サウンドをクリエイトし、そこから曲を作ることだから。電気からね。

80年代以降、エレクトロニック・ミュージックを更新したもっとも重要なアーティスト、あるいはあなたたちよりも下の世代の電子音楽家で好きな人/共感できる人は誰ですか?

ミッシェル:……ビョークかな。

ダン:ああ、彼女だね。

ミッシェル:彼女は常に探索を続けているし、わたしが音楽に関して好きな点もそこなんだ。そうは言っても、わたしもポップな音楽は好きだよ。ただ、何かをサーチしている人が好きだね、音楽として、必ずしも聴きやすくはないかもしれないけれども。

ダン:ビョークに……

ミッシェル:たとえばビョーク、それからFKAツィッグス等。そういう人たちだな。

ダン:そう。ビョークは、もちろんだ。彼女は常にイノヴェイティヴで新たなことをやろうとしているし、それに──まあ、この名前はちょっと一般的過ぎるかもしれないけれども、わたしはビリー・アイリッシュも好きだ。

ミッシェル:(先を越されてやや悔しそうにつぶやく)彼女の名前は、わたしも言おうとしていたところだよ。

(笑)そうなんですね!

ダン:(笑)ああ、彼女は大好きだ。

ミッシェル:まあ、音楽面は、彼女の兄がほとんどやっているらしいけれども。

ダン:ああ、そうだよ。だが、あのふたりは、どちらも非常に才能がある。

ミッシェル:彼女の音楽は悲しい感じだけれども──

ダン:うん。

ミッシェル:──(苦笑)でも、音楽はグレイトだ。

テレックスにはグルーヴがある


Telex
this is telex

Mute/トラフィック

Synthe-PopTechno

マルク・モーランがいまここにいないことは残念ですが、彼はどんな人だったのか教えていただけますか?

ミッシェル:彼はどうだったか……。彼は考える人だったと思う。かつ、ユーモアと才能にあふれていた。よき友だった。

ダン:そうだね。それに、彼は本当に優れたミュージシャンでもあった。そう思うのは、何年か前にテレックスの音源をデジタル化した際にマルチ・トラックを聴く機会があって、そこで彼がどれだけグルーヴにノって演奏していたかを発見したからでね。あの当時はテクノロジーも単純、ごく初歩的だったし、シークエンスに関してはあまりテクノロジーの活躍する可能性がなかった。だから、ドラムと非常に基本的なシークエンスを除き、ほとんどのトラックは手で、マニュアルに演奏されていたんだ。ベース・ラインの多くは手で演奏されていたし、それが実にグルーヴに富んでいてね。完璧ではなかったし、でも、それこそがグルーヴというものの概念であって。
 だからだろうな、自分たちがこう思ってきたのは……人びとは「エレクトロニック・ミュージックは冷たい音楽だ」と考えるけれども、そんなことはないんだよ。我々はそんな風に感じなかったし、スタジオにいた間、本当にグルーヴをエンジョイしていた。リズム・トラックがあり、ベーシックなドラムがあり、ベース・ラインがあり、そこに最初のキーボードが入ってくる云々、彼はそこに常にいた。それにもちろん、彼はアイディアが豊富だった。わたしは機材の背後でボタンetcを操る役まわりだったけれども、マルクとミッシェルが曲について話し合っている様は聞こえた。
 いまでもよく思い出すのは、3人一緒にサウンドを見つけようとしていた場面だね。わたしは機材のボタンを調整していて、そのうちに自分でも「これはいいな」と感じて、すると同時にミッシェルとマルクも「いいぞ!」と言ってくれて。「その位置のままで、いじらないで」と言われて、わたしも「わかった」と。そういった様々が組合わさった経験なんだ。

ミッシェル:それもあったし、たぶん……さっき、君は我々を「ベルギー版クラフトワーク」と呼んだけれども──いや、そう形容した人は君が最初ではないから、気にしなくてもいいんだよ(笑)

ダン:(苦笑)

ミッシェル:ただ、クラフトワークと我々の主なひとつの違いと言えば、それはおそらくグルーヴだろうね。

ダン:そう!

ミッシェル:というのも、マルクは黒人音楽に心酔していたし、彼はジャズ・マンでもあった。だから、思うにクラフトワークとの主要な違いは、テレックスにあったグルーヴではないか?と。さっきダンも話していたように、サウンドの多くは手で演奏したものだったからね。

ダン:そうだ。それにわたし自身、デジタルに変換していたとき、それに気づいて驚いたんだ。レコーディングの現場で、マルクがどれだけ楽々とあれらの演奏をしていたかは憶えているし、その場ではわたしも深く考えていなかった。ただサウンドを出し、プレイしていただけだし、そのテイクでオーケイ、それで決まりという感じで、実に楽だった。ところが、あれは一見楽そうに見えて、そうではなかったんだね。彼のプレイは本当に大したものだったな。タイミング感が、本当に、実によかった。そういえば、最後のアルバムを作る際に、マルクがキーボードを習い直しているんだ、と言っていたのは憶えているかい、ミッシェル? 彼は毎日数時間、もっと上手くなるためにキーボードを練習したんだ。そもそも非常に腕のいいキーボード奏者だったにも関わらず、それでもなおがんばった、という。

ミッシェル:間違いない、彼なしには、テレックスはあり得なかった。

ダン:それはもちろんだ。あり得ないよ、まったくそう。

ミッシェル:彼が決め手だった。

アルバムの最初と最後が未発表曲でしたね。2曲(“The Beat Goes On/Off”、“Dear Prudence”)ともカヴァー曲で、2曲ともとても面白いと思いましたが、どうしてこれがお蔵入りになっていたんでしょう?

ミッシェル:(苦笑)

秘密としてキープしてあった曲、とか?

ミッシェル:いやいや。あれは……我々が音楽作りをストップした後も、たまに顔を合わせて、何か一緒にやれることはないか?と探っていたんだよ。

ダン:アイディアをね。

ミッシェル:あれら2曲は、取り組みはじめてはみたものの、やった当時は興味深いとは思えなくてね。将来性を感じられなくて……。

ダン:アルバム1枚を作るに足るだけのアイディアが浮かばなかったんだよ。そこで、あの2曲はとっておくことにしたはずだ。で、やっと最後のアルバムができたとき、あれはマルクのアイディアをもとにしたんじゃなかったっけ、ミッシェル? この話は何日か前に思い出したんだけれども、そのアイディアは自分たち自身をサンプリングする、というものでね。だから、歌のパーツからはじめて、そこから新たなサウンドを作り出す、という。あのアイディアを、我々は実に──

ミッシェル:リサイクルする、ということだよね。

ダン:そう。興味深く、エキサイティングなアイディアだと思ったし、とても上手くいった。あのおかげで、最後のアルバムを完成させることができたんだ。

ミッシェル:とても上手くいったとはいえ、それほど成功には結びつかなかったな(苦笑)

(笑)

ダン:(苦笑)いや、それはなかった。

ミッシェル:でも、今回リミックスして、気がついたよ。あれは実にいいアルバムだ、うん。シンプルでいい作品。わたしも気に入っている。

ダン:わたしも同感。

日本には長きにわたってテレックスの熱狂的なファンがいますが、彼らに対してひと言お願いします。また、これからテレックスを聴くであろうリスナーにもひと言。

ミッシェル:んー……こう言おうかな。「我々を眺めるのではなく、音楽を聴いてください」

ダン:(笑)。そうだね、わたしも同じだ。「音楽を聴いてください」だ。

質問は以上です。今日はお時間いただき、ありがとうございました。

ダン&ミッシェル:ありがとう。

この再発を期に若いリスナーがテレックスを発見してくれると思うとワクワクしますし、今後の展開を楽しみにしています。もしかしたらあなたたちの新しい音楽を聴ける日が来るかも?と、期待していますので。

ミッシェル:……たぶん、それはない。

ダン:フフフフフッ!

ミッシェル:(苦笑)

そうですか。残念です……

ミッシェル:あ、ひとつだけいいかい? 君は通訳だよね? 音楽関係の仕事を主にやっているの? たとえば、いま君の言った最後のセンテンス、あれは質問者の言葉なのか、それとも君自身の言葉?

いちばん最後はアドリブです。でも、質問作成者も同じ思いを抱いているはずですので。今日は通訳として話させていただきましたが、わたし自身音楽ライターもやっていますので、音楽は少し知っています(苦笑)。

ミッシェル:ああ、そこはわたしも感じたよ。とてもいいインタヴューだった。どうもありがとう。

ありがとうございます。くれぐれも、お大事に。さようなら。

ダン&ミッシェル:ありがとう、君もね。

Telex - ele-king

 もやもやしていらいらしてすっきりしないこの時代、免疫力が下がりそう。それじゃまずいと、遊び心たっぷりの音楽を紹介しましょう。クラフトワークにドナ・サマーそしてYMOと、テクノ・ポップ時代の幕開けの時にベルギーのブリュッセルで結成されたトリオ、テレックスは、ガーディアンいわく「隠された財宝」だ。シングル「モスコウ・ディスコウ」は日本でもヒットしているのでご存じの方も少なくない。ちなみに彼らのデビュー・アルバムの邦題ってなんだったか憶えていますか? 『テクノ革命』です(笑)。しかし、これはあながちはったりでもなかったりする。
 テレックスは、バンド結成前にすでにキャリアのあったミュージシャンの集合体だった。中心人物であるマルク・ムーランは、レアグルーヴ・ファンにはお馴染みのジャズ・バンド、Placeboのメンバーだった人。ダン・ラックスマンは70年代初頭からモーグを操るベルギーのシンセサイザー音楽の草分け的存在。もうひとりのミシェル・ムアースはポップス畑の作曲家。テレックスはすでに音楽を知っていた大人たちによって結成されたバンドだった。ゆえに、その作品はプロフェッショナルに作られている。
 テレックスの音楽をガーディアンはマイケル・ジャクソンの“ビリー・ジーン”、ないしはニュー・オーダー、あるいはダフト・パンクにも繫がる回路を持っていると分析しているが、ふざけているように見せながらも、テレックスの音楽性はしっかりしているのだ。もちろんテレックスの最大の魅力は脱力感とユーモア。例えばロックンロールをテクノでやっているところなんかは、〈Mute〉の創始者ダニエル・ミラーのプロジェクト、シリコン・ティーンズの先をいっている。

 この度、昨年はカン再評価を促したミュート/トラフィックが再発シリーズ第一弾『ディス・イズ・テレックス』の発売を発表した。彼らの全キャリアから選曲されたベスト盤的内容で、ここには未発表だったビートルズのカヴァーも収録される。さあ、テクノ革命の再スタート、注目のリリースは4月30日です。

テレックス (Telex)
ディス・イズ・テレックス (this is telex)

Mute/トラフィック
発売日:2021年4月30日(金)
定価:2,400円(税抜)
新ミックス+リマスター作品


Tracklist
1. The Beat Goes On/Off *
2. Moskow Diskow
3. Twist à Saint-Tropez
4. Euro-vision
5. Dance To The Music
6. Drama Drama
7. Exercise Is Good For You
8. L’amour toujours
9. Radio Radio
10. Rendez-vous dans l’espace
11. Beautiful Li(f)e
12. The Number One Song In Heaven
13. La Bamba
14. Dear Prudence *
15. Moskow Diskow (English Version)**
16. Eurovision (English Version) **
*未発表曲
**日本盤ボーナス・トラック

■テレックス(Telex)
1978年、ベルギーのブリュッセルで結成したシンセポップ・トリオ。メンバー:ダン・ラックスマン、ミシェル・ムアース、マルク・ムーラン(2008年逝去)。シンセポップのパイオニア。1978年、シングル「モスコウ・ディスコウ」を、翌年1979年にはデビュー・アルバム『テクノ革命』を発売。1980年、シングル「ユーロヴィジョン」収録の2ndアルバム『ニューロヴィジョン』を発売。1981年、スパークスが参加した3rdアルバム『Sex』を発売。その後も新たなテクノロジーの発展の中、自らの本質を失うことなく、むしろ革新的な作品を次々と発表していった。2006年、カムバック作『How Do You Dance?』を発売。2008年、マルク・ムーラン逝去。2021年4月、MUTEより再発シリーズ第一弾『ディス・イズ・テレックス』発売。

1st アルバム: Looking For St. Tropez (『テクノ革命』)(1979年)
2nd アルバム: Neurovision(1980年)
3rd アルバム『Sex』(1981年)
4th アルバム: Wonderful World(1984年)
5th アルバム: Looney Tunes(1986年)
6th アルバム: How Do You Dance?(2006年)

KURANAKA 1945 × GOTH-TRAD × OLIVE OIL - ele-king

 KURANAKA a.k.a 1945 主催のパーティ《Zettai-Mu》が9月13日に梅田 NOON にて開催される。GOTH-TRAD、OLIVE OIL、mileZ ら豪華な面々が出演。5月にはライヴ・ストリーミングで「Zettai-At-Ho-Mu」が開催されていたが、今回はリアルに会場へと足を運ぶもの。コロナ時代における音楽やダンス、クラブのあり方を探っていくイヴェントになりそうだ。感染拡大防止対策をとりつつ、ぜひ参加してみてください。

KURANAKA & 秋本 “HEAVY” 武士 × O.N.O - ele-king

 今年でなんと25周年(!)を迎える KURANAKA a.k.a 1945 主催のパーティ《Zettai-Mu》が、4月25日(土)にストリーミングにてライヴ配信を敢行する。題して「Zettai-At-Ho-Mu」。もともと24日に開催される予定だった NOON でのパーティに代わって開催されるもので、秋本 “HEAVY” 武士 と O.N.O によるスペシャル・セッションもあり。これはすばらしい一夜になること間違いなしでしょう。なお視聴は無料の予定とのことだが、投げ銭のような仕組みも試験的に導入されるそうなので、アーティストや運営・製作に携わる人たちをサポートしよう。

[4月23日追記]
 上記の「Zettai-At-Ho-Mu」ですが、開催が5月23日(土)に延期となりました。詳しくはこちらをご確認ください。

R.I.P. Gabi Delgado(ガビ・デルガド) - ele-king

 ガブリエル・デルガド・ロペス、通称ガビ・デルガドが3月22日に死去していたことが複数の海外メディアで報じられた。61歳だった。死因は現在のところ公表されていないようだが、彼のキャリアにおけるもっとも有名なプロジェクト、DAFの相方だったロベルト・ゲイルが彼の死を確認しているという。
 ガビがヴォーカルを務めたバンド、DAF(ドイチュ・アメリカニシェ・フロイントシャフト )は、1978年にドイツで結成されたパンク・バンドであり、やがて磨かれるその際だったサウンド──言うなればジョルジオ・モロダーのパンク・ヴァージョンとも喩えられるエロティックかつパンキッシュなエレクトロニック・サウンドによって一世を風靡した。その影響はボディー・ミュージックからデトロイト・テクノ、ウェストバムから石野卓球などじつに広範囲にわたっている。

 DAFに関しては、1979年のファースト・アルバム『Produkt Der Deutsch-Amerikanischen Freundschaft』から第一期の最終作となった5枚目の『Für Immer』までのすべて必聴盤だが、1枚選ぶとしたら3枚目の『Alles Ist Gut』だろうか。ドイツ語のヴォーカルで「アドルフ・ヒトラーで踊れ」と挑発する彼らの代表曲“デア・ムッソリーニ”は、DAFそしてコニー・プランクの3人が作り上げた強力なエレクトロ・パンク・サウンドで、極度にマシナリーなリズムと凄まじいエロティシズムが混じり合う(まさにJ.G.バラード的な)並外れた曲のひとつである。
 名曲はたくさんある。最初は7インチ・シングルでしか聴けなかった“ケバブ・トラウム”は、のちの12インチ・ヴァージョンもふくめ人気曲のひとつだ。トルコ移民を排斥しようとするネオナチへのしたたかなカウンターだが、DAFの素晴らしいところは、そうしたきわどい政治性もエロティシズムとユーモア(ポップのセンス)に包んでしまうところだった。もちろん“Liebe Auf Den Ersten Blick ”を忘れるわけにはいかない。4枚目の『Gold Und Liebe』に収録された曲で、当時このPVを見たときには本当にぶっ飛ばされた。サウンドも動きもほかのパンクとはまったくの別モノである。

 スペイン生まれであるガビがラテン(ファンク)にアプローチしたソロ・アルバム『Mistress』も名盤であり人気盤だが、ぼくはDAF解散後のデルコム(Delkom)も好きだった。スエーニョ・ラティーノに触発されたであろう、サバ・コマッサなる女性とのプロジェクトのひとつで、1990年に発表された「Superjack」はラテン・クラフトワーキッシュ・アンビエント・ハウスの名作だ。ここでも機械へのフェティシズムとエロスとの融合が見事に具現化されている。
 
 DAFは卓球主催の〈WIRE〉にも出演しているが、ぼくは2014年の来日ライヴにも行った。ライヴは往年のヒット曲のオンパレードだったが、そこにガビ(とゲール)がいるだけでぼくは満足だったし、そこいた人たち全員もそうだったに違いない。ガビはたくさんのフォロワーを生んでいるが、結局のところそれは彼らにしかできなかった音楽だったし、いまだにDAFのようなバンドなどいないのである。

野田努

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 戦争があったことを忘れたがっている時期があった。矢作&大友の『気分はもう戦争』はそういうことに苛立ちを覚えて描かれたマンガであった。「『戦争を知らない子どもたち』を知らない子どもたち」という揶揄まで飛び出し、冷戦末期ともなると戦争は確かに現実味に乏しい行為であり、感覚でもあった。リリアーナ・カヴァーニ監督『愛の嵐』(74)に影響されて沢田研二やパタリロがナチスの制服を着てもとくにお咎めはなく、『トップ・ガン』や『ランボー』といった戦争映画もアクションを見せるための「背景」でしかなかった。ところが欅坂46がナチス風のファッションでデビューした際、世界規模で避難が巻き起こったことは記憶に新しく、第二次世界大戦を扱っているにもかかわらず『野火』のリメイクや『サウルの息子』の方が現代にとって切迫感や現実味を増していることは確かである。復興が最優先の時期には戦争のことは積極的に忘れたかったのかもしれない。そして、豊かになってから呼び覚まされる政治意識というものがあり、どこかでそれは入れ替わったのである。どこが転換点だったのだろう。僕はパンクもひとつのきっかけだったと思う。セックス・ピストルズがナチスの腕章を付けたスージ・スーたちとテムズTVに出演し、スロッビン・グリッスルはアウシュビッツ収容所を曲の題材とした(前者が”No One Is Innocent”でナチスの生き残りをベースに起用したというのはさすがにウソだった)。そして、ドイツではDAFが「Der Mussolini」をリリースした。タイトルはムッソリーニだけれど、歌詞にはアドルフ・ヒトラーがフル・ネームで5回も出てくる。それ以上の内容はなく、政治思想と呼べるものとはほど遠い。とはいえ、ドイツでアドルフ・ヒトラーの名前を歌詞にのせることはかなり挑発的なことだったはず。日本では角川文庫で普通に読めたけれど、2016年にバイエルン州が歴史の資料として『我が闘争』を復刊しようとした際もすさまじい論争が巻き起こり、ドイツでヒトラーに言及することが尋常ではないことを窺わせた。それを1981年に22歳のガビ・デルガドーは大胆にもやってのけた。♪ムッソリーのダンス、アドルフ・ヒトラーのダンス、ジーザス・クライストのダンス、共産主義のダンス、右に、左に、腰をくねらせ、手を叩く!

 DAFを先頭グループとするノイエ・ドイッチェ・ヴェレは全体に政治意識が強かった。パレ・シャンブルグは西ドイツの首相官邸の名称だし、アインシュツルツェンデ・ノイバウテンは活動の起源がそもそもスクウォッターズ運動に由来する。70年代にもバーダーマインホフのような政治運動と結びついたアモン・デュールや労働問題を背景にしたと思われるクラフトワークの『Man Machine』もあることはあったけれど、大半はタンジェリン・ドリームやアシュラなど逃避傾向の音楽に傾いていた。それらが一転してノイエ・ドイッチェ・ヴェレでは覆り、「独米友好」を名乗るDAFも戦後のドイツがアメリカに依存しすぎていることを皮肉ったネーミングだと推測させるものがあり、DAFという頭文字はナチス政権下の労働組織だった「ドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront)」とのダブル・ミーニングを狙ったものとしか思えない。明確な政治目標のようなものはなくても、豊かになった社会に少しでも波風を立てたい。あるいは逃避的な音楽が社会との接点を持ちたがらなかったのとは対照的に、ドイツに限らず世界中のパンクやニュー・ウェイヴはヒッピーとは逆に社会の注目を集めることに肯定的だったという価値観の転換にも誤差はなかったので、DAFも例外ではなく、最も効率よくそれに成功した部類に入るといえるのではないだろうか。とはいえ、DAFの歌詞は政治に比重が置かれていたわけではなく、官能的なものの方が多く、「アメリカのTVにプレスリーが現れた」ようなルックスや効果が与えたショックも大きかったことだろう。ピナ・バウシュのように官能性をいっさい排除したバレエが好まれる国であり、ドイツ産のポルノは世界中のどの国にも売れないと言われてしまうわけだから。

 “Der Mussolini”が収録されたサード・アルバム『Alles Ist Gut』は最高にカッコよかった。シンプルで威圧感も適度にあり、身体性を突出させたところが他のノイエ・ドイッチェ・ヴェレにはない魅力だった。シークエンスされたベースと生ドラムのズレも気持ちよく、パワーを全開にするだけでなく、“Der Räuber Und Der Prinz”のように力を溜め込むようなアレンジを施すことによって抑制された官能性を引き出した曲もまたよかった。だけど、僕はその直前に唯一のトリオ編成で録音された”Tanz Mit Mir”がいまだにベスト・ソングである。DAFがパンクだった時代の名残りをある程度フォーマット化し、疾走するリズムを追いかけるようにかき鳴らされるヴォルフガング・シュペールマンのひしゃげたギターが小気味好く神経を刺激する。この編成でアルバムが1枚あってもよかったよなと僕はいまでも思い続けている。そうすればDAFがパンク・バンドとして残す知名度ももう少し上がり、ノイエ・ドイッチェ・ヴェレのイメージももう少し分かりやすいものになったのではないかと。4人編成から2人に人数を減らし、3枚のアルバムをヴァージンに残したDAFは6作目となる『1st Step To Heaven』で、さらにサウンド・スタイルを変えていく。生ドラムを捨て、当時でいえばヒューマン・リーグやプロパガンダを追うようにしてシンセ~ポップに切り替えたのである。ミックス・エンジニアとしてこのアルバムに参加したトム・シィエル(後にサン・エレクトリック)に聞いた話では、このアルバムはほとんどガビ・デルガドーが単独でつくり上げたものであり、ロベルト・ゲールは(クレジットはされているものの)何もしなかったに等しかったという。通訳を介して聞いた話なのでニュアンスには自信がないけれど、ガビ・デルガドーはそれだけ責任感が強いとシィエルは訴えたかったようにも聞こえた。そして、その経験はおそらくガビ・デルガドーに次の時代をもたらすことになった。

 トム・シィエルの言葉を信じるならば『1st Step To Heaven』でドラム・プログラミングに取り組んだのはガビ・デルガドーであり、ヴォーカリストだった彼が機材と格闘したことは想像にかたくない。“Voulez Vous Coucher Avec Moi Part II”にはラべルのクラシック“Lady Marmalade”もサンプリングされ(ハッピー・マンデーズが“Kinky Afro”で丸パクリしたアレである)、1986年とは思えない技術の駆使である。『1st Step To Heaven』には収録されず、DAFにとってラスト・シングルとなった「The Gun」(87)にはハウスと表記されたリミックス盤もある(どちらかというと、これはニュー・オーダー“Blue Monday”などを混ぜたディスコ・ヴァージョン)。87年の時点で、つまり、J・M・シルクの“Jack Your Body”がリリースから1年をかけてイギリスのヒット・チャートで2週に渡って1位となり、ハウス・ミュージックがオーヴァーグラウンドで初めて認知された年にはガビー・デルガドーはハウスに興味を持っただけでなく、自らハウス・リミックスにも手を出し、ベルリンで最初にハウス・パーティを開いたとされ、翌年春にはDAFのバック・カタログから“Liebe Auf Den Ersten Blick”をジョセフ・ワットにリミックスさせるところまで一気に突き進んでいる。そして、「The Gun」から大袈裟なシンセサイザーのリフを取り除き、ベース主体のトラックとして生まれ変わらせたものを2年後にデルコム“Superjack”としてリリースする。DAFが2人になった時も引き算がネクストを生み出したとしたら、ここでも余計なトラックを間引いただけで次の段階に歩を進めたのである。ただし、“The Gun”から“Superjack”に至るまでには意外と長い試行錯誤も続いている。ガビー・デルガドーとサバ・コモッサが最初にタッグを組んだらしきFX名義“Freak”はソウル・サーチャーズを思わせるゴー・ゴーとニュー・ビートの中間のような曲調で、『Alles Ist Gut』に対する郷愁がほの見えるし、〈ロウ・スピリット〉からとなった2ハード・アウト・オン・ハイ名義“One Good Nite On Hi87”はエレクトロを基調とし、それこそトーマス・フェルマンズ・レディメイドのパクリっぽい。2ラティーノ・ジャーマンズ、フューチャー・パーフェクト、フューチャー(Futur)、アンティ~タイムと、なぜか曲を出すごとに2人は名義を変え、ようやくデルコム名義でアルバム『Futur Ultra』に漕ぎ着ける。しかし、これは808ステイトやジョーイ・ベルトラムがレイヴ・カルチャーをハードな様相へと向かわせた1990年には少し合わないものになっていた。この時期の2年間はあまりにも物事が急速に展開していった時期だった。

 91年にデルコムは2ラティーノ・ジャーマン名義で“Viva La Droga Electronica”をベルリン・トランスの〈MFS〉からリリースする。これはとても興味深いことで、89年にノイエ・ドイッチェ・ヴェレからダンス・カルチャーへと乗り換えた「先駆者たち」を集めたコンピレーション『Teutonic Beats: Opus Two』のラインナップを眺めてみると、簡単にいえばパレ・シャンブルグからトーマス・フェルマンやモーリツ・フォン・オズワルドが紆余曲折を経たものの最終的にはデトロイト・テクノを目指し、DAFがトランスに向かったという流れが見えてくる(新顔ではウエストバムやマイク・インクことヴォルフガング・フォイトも参加)。決定的だったのは94年にやはり〈MFS〉からリリースしたヴーヴ・デルコム・フォース名義“Generate Eliminate”である。それこそ808ステイトやジョーイ・ベルトラムの後を追ってハード・トランスにも手を出したとしかいえない曲で、デルコムと組んだヴーヴはリエゾン・ダンジュオーズ解散後にベアテ・バーテルがグトルン・グートと組んだマタドールでもミックスを担当するなど、この時期の要注意人物である。パレ・シャンブルグはホルガー・ヒラーがいたこともあって諧謔性のイメージが強かったし、骨太で官能的なリズムに執着のあると思えたDAFがトランスに向かうというのは、なんというか、逆ではないかという疑問を僕は長いこと拭いされなかった。それこそDAFはリズムだけを突出させたスタイルがボディ・ミュージックを生み出したと考えられていることもあり、リズムに工夫のないトランスに落ち着くのは納得がいかなかったと。しかし、おそらくそのようなイメージの元になっているのはロベルト・ゲールのドラムであって、ガビ・デルガドーには実はリズムに対する深い執着はなかったのかもしれない。ガビー・デルガドーがこだわったのはいつでもスタイルであり、ルックスが重要な要素だったDAFもそうなら、ハウスに手を出した動機も同じだったに違いない。そのことが最も強く表れているのはガビ・デルガドーにとって唯一のソロ作となった『Mistress』(83)である。あの時、彼はブリティッシュ・ファンクのブームに乗ろうとしたのだろう。彼は、そして、それを本当にカッコよく決めたと思う(あのジャケットにやられて僕はアロハ・シャツを集め始めるようになってしまった)。

『Mistress』というアルバムは、スイスに移住して作られたアルバムで、ドイツでは売れずに日本ではかなり売れたらしいけれど、ジャーマン・ファンクの伝統という耳で聴くと、70年代のファンク・ブームを支えたクラウス・ヴァイスの昔からベルリン・スクールやジャーマン・トランスを経て、現在のヴォルフ・ミュラーへと続く、揺れのないリズムを志向するドイツの国民性をあまりにも明瞭に浮かび上がらせ、その迷いのなさにはたじろがざるを得ない。ひと言でいうと音楽的にはあまり大したものでないにもかかわらず、スタイルだけで引きずり倒していく快感を教えてくれたのが『Mistress』だった。複雑な音楽性に耳が慣れていくことだけが音楽鑑賞ではない。デザインや時にははったりも音楽文化を構成する大事な要素である。そう、ブルー・ロンド・ア・ラ・タークやキッド・クレオールでは最後のところで満足のいかなかったラテン・ファンクのインチキ臭さをここまで存分に楽しませてくれたアルバムはほかになかった(キッド・クレオールのコーティ・ムンディはパレ・シャンブルグのプロデューサーも務めた)。コニー・プランクがスゴいのかもしれないけれど、ガビ・デルガドーが残したもののなかでは僕はどうしてもこれが最高の1枚であり、2枚の12インチ・シングルは愛聴盤の範囲を超えている。そうでなければフューチャー・パーフェクトやDAF / DOSまで追ってみようとは思わなかったし、『Mistress』でベースを弾いているバイセクシュアルの弟、エデュアルド・デルガドー・ロペスが参加するカスパー・ブロッツマン・マサカーまで追うことはなかった(カスパー・ブロッツマンはピーター・ブロッツマンの息子)。

 ヴーヴ・デルコム・フォースに思いっきり失望させられた僕はその翌々年、意外なところでガビ・デルガドーの名前を聞く。初来日したアレク・エムパイアが、彼の最初のマネージャーはガビ・デルガドーだったというのである。ある日、彼の前に現れたガビ・デルガドーがマネージメントしたいとオファーしてきたものの、アレク・エムパイアはガビ・デルガドーどころかDAFのことも知らなかったという。最初に聞いた時は僕も意外だったけれど、ヴーヴ・デルコム・フォースがハード・トランスをやろうとしていたことや、ガビ・デルガドーがDAFに加入する前はピート・ハインとチャーリーズ・ガールズというパンク・バンドを組んでいたことを知ると、そんなに意外でもないのかと思えてくる。ピート・ハインもノイエ・ドイッチェ・ヴェレのなかでは比較的ノーマルなパンク・バンド、フェルファーベンでヴォーカルを務め、ピート・ハインがファルファーベンを抜けてミタグスポーゼを結成した時にはガビ・デルガドーもDAFと掛け持ちでメンバーを務めていたことがある。ミタグスポーゼは吐き捨てるように「ドュッセルドルフの日本人!」と歌っていたグループで、さすがにあんまりいい気持ちはしなかったけれど、そのような攻撃性をクラブ・サウンドの文脈で実現していたアレク・アンパイアにガビ・デルガドーが惹かれてもおかしくないことは確かだろう。とはいえ、ガビ・デルガドーが本当に考えていたことは僕にはわからない。彼にとって最も大事なことはなんだったのだろう。2003年にDAFが再結成され、ドイツではナショナル・チャートを駆け上がったことや、2010年代には配信専門の〈ガビ・ユーザーズ・クラブ〉を設立して矢継ぎ早に彼はソロ・アルバムをリリースし始めた。そして、生前最後となった曲は“Tanzen(ダンス)”だった。R・I・P。

三田格

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 D.A.F.のヴォーカリストであるガビ・デルガドが逝去しました。この突然の訃報に大変な悲しみを感じております。ガビは、パフォーマーかつソングライターとして、果敢にその表現を前進させ続けてきたアーティストでした。彼は音楽とユース・カルチャーに関してとても強いヴィジョンを持っており、それによってバンドは全てのエレクトロニック・ダンス・ミュージックに多大な影響を与えることができました。その影響は今なお続いています。80年代に入ってMUTEの最初の作品「Die Kleinen und die Bosen」から最近に至るまでの数年間、ガビやD.A.F.と共に働けたことを、わたしはとても誇らしく思っております。D.A.F.のパートナーであるゲールと、彼の家族や親密だった方々にお悔やみ申し上げます。

ダニエル・ミラー(MUTE創始者)

Stolen@Tempodrom, Berlin - ele-king

 来年3月にニュー・オーダーの来日が決定、石野卓球と Stolen が追加出演することも発表された。その噂の Stolen とはいったい何者なのか? というわけで、この秋ベルリンで開催されたニュー・オーダーと Stolen のライヴの模様をレポートします。

世界が音楽に貪欲だった70年代の再来か!? 中国の新世代インディーズ・バンドがニュー・オーダーと共に欧州に君臨、そこで、手にした未来とは!?

 現代に残る社会主義国家でありながら、他の資本主義国家よりも圧倒的な経済発展を遂げている中国が閉鎖的であるというイメージはもはや過去の産物ではないだろうか。むしろ、時代を逆行するかのごとく、どんどん自由が制限され、それに気付く余裕さえないほど殺伐とした環境で、ピュアな感性が蝕まれていくように感じる今の日本の方がよほど危機感を覚えるのは筆者だけだろうか。物質的なものでも情報でも、いとも簡単に何でも手に入る環境が決して幸せで良いことであるとは言えないのだ。

 これは何も社会的なことに限った話ではない。アンダーグラウンドな音楽シーンにおいても同様に思うのだ。

 まだ10月初めだというのに冬物のジャケットが必要なほど冷え込んだ日、ベルリンのコンサートホール「Tempodrom」でヨーロッパ・ツアー真っ最中の New Order のライヴが行われた。そのサポートアクトを務めたのが、中国四川省成都出身の中国人5名、フランス人1名からなる6ピースバンド “Stolen” である。


Photo by Alexander Jung

 ヨーロッパでは未だ未知の領域である中国のインディーズ・シーンから、突如テクノの街ベルリンに現れたバンド Stolen とは一体何者なのだろうか? まず、アジア人のコンプレックスを隠そうとするありがちな “Too much なデコラティヴ” は一切なく、むしろ、全身黒の衣装で統一したシンプルなミニマル・スタイルに黒髪の彼らは控えめな若者の集まりと言った印象。

 それに反して、ライヴ・パフォーマンスはストイックと完璧主義の塊である。心の奥底に押し込めた欲望やら鬱憤やらをサウンドに打ち付けて、吐き出しているかのように激しく、それでいて荒削りで強引な演奏ではなく、インテリジェンスで完璧なまでのスキルに身震いするほどの衝撃を受けた。
 圧倒的な存在感を放つフロントマン Liang Yi による堂々たるナルシシズムを全面に出した独自の世界観に真っ先に引き込まれていく。歌詞はほとんどが英語で歌われており、その時点で中国だけでなく、世界の舞台を見据えているように思えた。そして、彼らの放つサウンドはポップではなく、一貫してダークである。VJ担当の Formol によるアートワークがその世界観をグラフィックと写真のコラージュで実にシュールに表現している。


Photo by Alexander Jung

 Kraftwerk や Joy Division に影響を受けているという彼らだが、全員まだ20代である。インターネットが監視下に置かれている中国で、違法ダウンロードによって手にした “外の世界の音” から、自分たちが生まれてもいない70年代のドイツのクラウトロックやイギリスのポストパンク、ニューウェイヴと運命的に出会う。そして、インスパイアされ、独自の解釈によって、ギターと打ち込みが疾走するオリジナリティー溢れる Stolen サウンドとして誕生したのだ。ダークでメランコリックであるが、そこに存在するのは絶望ではなく、暗闇で輝く生粋のアンダーグラウンドである。

 自国へ帰ればアルバイトで生活費を稼ぐ日常が待っている労働者階級出身の彼らに、ネット世界ではなく、本物のベルリンを見せ、スポットライトを当てた重要人物がいることを忘れてはいけない。彼らの成功への道は、プロデューサーの Mark Leeder の存在なくしては語れない。1990年、壁崩壊直後の混沌としていたベルリンで、自身のレーベル〈MFS〉を設立し、マイク・ヴァン・ダイクや電気グルーヴといったテクノ・アーティストのリリースを手掛ける傍、世界を飛び回り、アンダーグラウンド・シーンで光る原石を掘り続けてきた伝説のプロデューサーである。90年代から中国の音楽シーンに注目していた彼の目に止まったのが、平成生まれの若き Stolen である。マークは一体彼らにどんな未来を見たのだろうか?

 伝説のプロデューサーと言えば、もはや何度観たか分からない筆者の音楽人生のバイブル『24アワー・パーティー・ピープル』の故トニー・ウィルソンが頭に浮かんだが、壁に分断されていた80年代の西ベルリンを描いたドキュメンタリー映画『B-MOVIE』が、Mark Reeder そのものなのだ。彼の半生を描いた同作では、自身がストーリーテラーも務めており、狂乱に満ちた同じ時代を駆け抜けた同士として、当然ながらトニー・ウィルソンとの親交も深かったと言う。


Photo by Alexander Jung

 ベルリンは、時代を越えて心底アンダーグラウンド・ミュージックと共存している街であると言える。地下鉄の中やストリートでは日々パフォーマーたちによって様々なジャンルの音楽を耳にし、普通の女の子が Bluetooth スピーカーから爆音でビート・ミュージックを鳴らしながら闊歩する。世界最高峰と呼び名の高い Berghain では毎週末36時間ぶっ通しのパーティーが行われている。そこには年齢も性別も人種も関係ない、心底音楽が好きな人間たちが集まっている、ただ、それだけである。

 Joy Division の『Unknown Pleasures』のTシャツに身を包んだ熟練でシビアな New Oeder ファンを前で堂々たるプレイを見せつけ、取り込んだ Stolen は、アジアを代表するバンドとしてここヨーロッパで確固たる地位を築いていくだろう。この日、客席には彼らの楽曲 “Chaos” をミックスした石野卓球の姿があった。Stolen に昔の電気グルーヴの姿を重ねながら、70年代のマンチェスターやベルリンの再来を期待せずにはいられない一夜となった。

New Order (ニュー・オーダー)の来日公演に、ニュー・オーダーのバーナード・サムナー(Vo.)が絶賛する中国のインディーバンド Stolen と石野卓球が追加出演決定!!

1980年代後半から1990年代初頭にかけて起きたマンチェスター・ムーヴメントを描いた映画で2002年に公開され大ヒットした映画「24アワー・パーティー・ピープル』にも登場する、マンチェスター・ムーヴメントの象徴的アーティストで、ロックとダンスを融合させてサウンドが、ブラー、オアシス、レディオヘッドなど、その後のUKロックバンドに多大な影響を与えたイギリス、マンチェスター出身の伝説バンド、New Order (ニュー・オーダー)の来日公演に、中国のインディーバンド、Stolen と石野卓球の追加出演が決定しました。

Stolen はニュー・オーダーのバーナード・サムナー(Vo.)が彼らの音楽に惜しみなく賛辞を贈る、平均年齢26歳の5人の中国人と1人のフランス人による中国のインディーバンドで、10月からスタートしている、ヨーロッパでのニュー・オーダーのライブ・ツアーにスペシャルゲストとして帯同中。

石野卓球は、Stolen の全世界デビュー・アルバムとなる『Fragment (フラグメント)』にリミックスを提供していますが、実はこの3組のアーティストを繋ぐハブとなったのは、マンチェスター出身のプロデューサー、DJ、そしてドイツベルリンの伝説的音楽レーベル〈MFS〉のオーナーでもあるマーク・リーダーです。

マーク・リーダーはニュー・オーダーのバーナード・サムナーにいち早くベルリンのダンスミュージックを体験させた人物で、彼がいなければニュー・オーダーの名曲“Blue Monday”が生まれることはなかったと言われています。

また、電気グルーヴの『虹』を自身のレーベル〈MFS〉からリリースし、電気グルーヴと石野卓球がヨーロッパで活躍するきっかけを作ったのもマーク・リーダー。

そして、Stolenの全世界デビュー・アルバム『Fragment (フラグメント)』をベルリンでレコーディングし、このアルバムに石野卓球のリミックスが収録されることになったのもマーク・リーダーのプロデュースによるものなのです。

国も世代も異なるアーティストたちが、“音楽密輸人”の異名を持つマーク・リーダーを中心に日本公演で貴重な邂逅を果たします。

なお、ゲスト出演決定につき、開場・開演時間が変更になりますので、詳細は以下の情報をご覧ください。
【ライブ情報】

※ゲスト出演決定につき、開場・開演時間を変更させて頂きます。予めご了承ください。

東京 3月3日(火) 新木場 STUDIO COAST / special guest : 石野卓球
東京 3月4日(水) 新木場 STUDIO COAST / special guest : STOLEN / 石野卓球
OPEN 18:30→18:00 / START 19:30→19:00
TICKET スタンディング ¥10,000 指定席 ¥12,000(税込/別途1ドリンク)※未就学児入場不可
一般プレイガイド発売日:発売中 <問>クリエイティブマン 03-3499-6669

大阪 3月6日(金) Zepp Osaka Bayside / special guest : STOLEN
OPEN 18:30→18:00 / START 19:30→19:00
TICKET 1Fスタンディング ¥10,000 2F指定 ¥12,000(税込/別途1ドリンク)※未就学児入場不可 ※別途1ドリンクオーダー
一般プレイガイド発売日:発売中 <問>キョードーインフォメーション 0570-200-888

制作・招聘:クリエイティブマン
協力:Traffic

【ニュー・オーダー】
メンバー:バーナード・サムナー、ジリアン・ギルバート、スティーヴン・モリス、トム・チャップマン、フィル・カニンガム

マンチェスター出身。前身のバンドは、ジョイ・ディヴィジョン。80年、イアン・カーティスの自殺によりジョイ・ディヴィジョンは活動停止を余儀なくされ、バーナード・サムナー、ピーター・フック、スティーヴン・モリスの残された3人のメンバーでニュー・オーダーとして活動を開始。デビュー・アルバム『ムーヴメント』(81年)をリリース。82年、ジリアン・ギルバート加入。83年に2ndアルバム『権力の美学』をリリースし、ダンスとロックを融合させた彼らオリジナルのサウンドを確立した。85年リリースのシングル「ブルー・マンデー」は大ヒットを記録、12”シングルとして世界で最も売れた作品となった。同年初の来日公演を実施。所属レーベルのファクトリー・レコードが地元マンチェスターに設立したクラブ、ハシエンダ発のダンス・カルチャーは、80年代後半にマッド・チェスター、セカンド・サマー・オブ・ラヴといった世界を牽引する音楽シーンを生み出した。その一大カルチャーの中心的存在として、3rdアルバム『ロウ・ライフ』(85年)、4thアルバム『ブラザーフッド』(86年)、5thアルバム『テクニーク』(89年)をリリースし、その評価・人気共にUKユース・カルチャーの象徴となった。93年、ロンドン・レーベル移籍第1弾として、名曲「リグレット」等が収録された6thアルバム『リパブリック』をリリース。7thアルバム『ゲット・レディー』(2001年)と8thアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・サイレンズ・コール』(2005年)は、ギター・サウンドに比重を置いたサウンドとなった。2007年、オリジナル・メンバーのピーター・フック(b)がバンドを脱退。2001年と2005年にフジ・ロック・フェスティヴァルに、2012年にサマー・ソニックに出演。2014年、MUTE移籍が発表され、2015年9月23日に9thアルバム『ミュージック・コンプリート』をリリース。2016年、実に29年ぶりの単独来日公園を行う。2017年、ライヴ盤『NOMC15』をリリース。2019年6月、地元マンチェスターの伝説の会場で2017年6月に5夜に渡って行われたライヴを収録した『∑(No,12k,Lg,17Mif)』を発売。

タイトル:∑(No,12k,Lg,17Mif) / ∑(No,12k,Lg,17Mif) New Order + Liam Gillick: So it goes..
品番:TRCP-243~244 / JAN: 4571260589032
定価:2,600円(税抜)*CD:2枚組

【石野卓球】
1989年にピエール瀧らと電気グルーヴを結成。1995年には初のソロアルバム『DOVE LOVES DUB』をリリース、この頃から本格的にDJとしての活動もスタートする。1997年からはヨーロッパを中心とした海外での活動も積極的に行い始め、1998年にはベルリンで行われる世界最大のテクノ・フェスティバル“Love Parade”のFinal Gatheringで150万人の前でプレイした。1999年から2013年までは1万人以上を集める日本最大の大型屋内レイヴ“WIRE”を主宰し、精力的に海外のDJ/アーティストを日本に紹介している。2012年7月には1999年より2011年までにWIRE COMPILATIONに提供した楽曲を集めたDisc1と未発表音源などをコンパイルしたDisc2との2枚組『WIRE TRAX 1999-2012』をリリース。2015年12月には、New Orderのニュー・アルバム『Music Complete』からのシングルカット曲『Tutti Frutti』のリミックスを日本人で唯一担当した。そして2016年8月、前作から6年振りとなるソロアルバム『LUNATIQUE』、12月にはリミックスアルバム『EUQITANUL』をリリース。
2017年12月27日に1年4カ月ぶりの最新ソロアルバム『ACID TEKNO DISKO BEATz』をリリースし、2018年1月24日にはこれまでのソロワークを8枚組にまとめた『Takkyu Ishino Works 1983~2017』リリース。現在、DJ/プロデューサー、リミキサーとして多彩な活動をおこなっている。

www.takkyuishino.com

【STOLEN】
中国で今最も刺激的な音楽シーンになるつつある四川省の省都・成都(せいと)を拠点にする平均年齢26歳の5人の中国人と1人のフランス人で構成される6人組のインディーズバンド「STOLEN(ストールン:秘密行动)」。2011年の結成から7年、謎多き中国のインディーズシーンから全世界デビューアルバムとなる『Fragment(フラグメント)』はドイツベルリンの伝説的レーベル「MFS」のオーナーMark Reederがプロデューサーとなり、成都にある彼らのホームスタジオとベルリンのスタジオでレコーディングされた。テクノやロックといったカルチャーを独自に吸収したそのサウンドやライブステージ、アートワークは、中国の音楽好きな若者から人気を集めるポストロック〜ダークウェイブの旗手として、その注目度は世界中へ拡がっている。

STOLEN
日本デビュー・アルバム『Fragment』発売中
価格:¥2,500+税
商品仕様:CD / 紙ジャケ / リーフレット
品番:UMA-1121

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